D—聖魔遍歴 〜吸血鬼ハンター6 菊地秀行 [#改ページ] 目次 第一章 “隠されっ子” 第二章 闇に光る眼(まなこ) 第三章 生きている砂漠 第四章 心理攻撃 第五章 闇の森 第六章 崩壊の調べ あとがきに代えて [#改ページ] あしべゆうほ氏に [#改ページ]  その町は、旅路の果てでもあり、はじまりとも言えた。  南の端から広がる黄金の砂の海を烈風が吹き渡り、鋼の大門を叩くとき、子供の指先ほどもある砂粒は、高く低く、もの哀しげな音をたてた。  それは、遠い砂の向こうで誰かが、旅立つものを引き止めようとして歌う哀切な歌に似ていた。  ことに風が強いとき、通りには砂塵が霧雨のように舞い、板張りの歩道や酒場の窓枠に、乾いた染みを色濃くつけるのだった。  砂には、ごくたまにだが、小さな虫が混じっていた。  チタン合金よりも強靭で万力よりも強い顎を持つこの虫は、木やプラスチックのドアなど紙のごとく食い破りながら、決まってその襲来の後から吹きつけてくる薄桃色の花びらに触れると即死する、という優雅さを具えていた。両者の訪問順序に狂いは生じぬため、町の家々は、わずか三分間だけ、小さな殺し屋の暴威に耐えればいいのだった。  それでも、虫の数が際だって多い晩、町は琴線を爪弾くような、固い、美しい音に包まれる。人間に害は及ぼさぬ|顎《あぎと》の音色が、やがて夢見るような色彩に触れて、眼覚めるがごとく消えていく。それが、別れの歌につづく葬送の調べにも思えて、町の人々は口数も少なく、暖炉の火を眼に点すのだった。  薄紅の花びらが何処からやって来るのかはわからない。  夜も灼けつく砂漠を旅立っていったものたちは数多いが、戻って来た旅人はひとりもいないからだ。彼らが目的の地へ辿り着いたものか、砂塵に身を埋めたか、便りとてなく、|一会《いちえ》の|縁《えにし》を得た人々のみが、ある日、片々たる記憶の片隅にふと、おぼろな面影を滲ませ、町はずれを渡る砂風に眼を向けるのだった。  その日、町はことの外、虫の歌声が高く、薄桃の舞いも少し遅れるようで、住人たちは、ある予感を抱きつつ、暮れなずむ街路を眺めた。  葬送の調べが絶えず、奏でるものも死なねばならぬ時刻。  そう。  その若者は、そんな時刻にやって来たのだった。 [#改ページ] 第一章 “隠されっ子”    1  虫の声がひときわ強まり、テーブルやカウンターに陣取った男たちは、猛々しい視線をドアの方に向けた。  砂粒が紗と化して吹きつけ、たちまち崩れて、床にそこはかとない風紋を描いた。  ドアは閉じられた。  困惑の視線が新しい客を捉えた。  仲間に入れたものか、拒否すべきか。  床がきしみはじめるまで、少し間があった。きしみの方向を決めるためである。  決まった。  ピアノが|熄《や》んだ。ピアニストが凍りついたのである。  女たちの嬌声が引いた。  男たちのざわめきが絶えた。  カウンターの向こうで、バーテンが酒瓶とグラスを手に硬直した。  次に起こる出来事への好奇心と怯え。  ドアの左側——少し奥のテーブルが目的地であった。  人影が二つわだかまっていた。  黒と青。  黒いシルクハットにくるぶしまで裾が届きそうな礼服は、葬儀屋を思わせた。  深いブルーの|鍔《つば》なし帽は、たくましい身体を包む同色のシャツと等しく、辺境でも最も凶暴な獣とされるブルー・ジャッカルの表層皮にちがいない。  どちらも椅子にもたれていた。俯いた顔は眠っているようだ。  きしみ音の主は、奇妙な事態に気づいていたかもしれない。  二人組を囲むように並べられたテーブルには、ひとりの客もいなかった。  避けるように。忌み嫌うように。怯えるかのように。  もうひとつ——  影たちの前のテーブルに並んでいるのは、酒瓶とグラスではなかった。  底の方に黒い液体を湛えた真鍮のコーヒー・カップは、未練げに白い湯気をくねらせていた。  きしみが停止しても、二つの影は顔を上げなかった。  物音すべてがそれをもって絶えた。  数秒の沈黙。  張りのある声がそれを破った。 「おれたちゃ、礼儀知らずは嫌えだぜ。——若いの」  青い影が洩らしたのである。  すぐに—— 「ミスったな、クレイ」  こちらは、声まで黒く沈み、それでいて、小さな酒場に居合わせた全員が身震いした。 「ほう」  ブルーの帽子がふっと上がった。  鋼のような顔にはめ込まれた双眸は、|服装《いでたち》よりも青かった。  足音の主を若いの、と呼んだが、自分こそ|二十歳《はたち》そこそこだろう。気の弱い男など睨み殺せそうな凶暴|顔《がん》が、不意に無邪気に笑って、 「こいつぁ、驚いた。顔は化けられても、足音は年相応なもんだがよ——」  と、ごちた。 「残念だったね、坊や」  声は顔同様、ひからびた粘土みたいな唇から洩れた。  年齢もわからぬほど皺だらけの顔よりも、後頭部で朱色のリボンが束ねた白髪よりも、ささくれ立った金属繊維のブラウスとベストのわずかな盛り上がりが、声の性別を示していた。 「あたしも無視されるのは嫌いでね。|外《アウター》辺境一の使い手だからって、年寄りには相応の敬意を払うべきじゃないのかい」  ざわめきが、彫像と化した人々を巡った。  誰かが言った。 「あの婆さん、ビンゴとクレイ——ビューロー兄弟に喧嘩を売る気だぞ」 「何の用だい?」  とクレイが訊いた。口調はむしろ明るい。 「あたしゃ、明日、砂漠を越えて|内《イナー》辺境まで出向く。一緒に来て欲しいのさ」  クレイの口がぽかんと開いた。老婆から眼を離さず、 「おい、兄貴——見ず知らずの婆さんが、砂漠の旅に付き合えとよ」 「給料ははずむよ。あたしともうひとりを護衛して欲しいのさ。あんた方がついて来てくれれば、一週間もかからず着くだろ。しかも、生きて、ね」 「兄貴——」 「見ず知らずか」  ともうひとりの声が言った。蜘蛛のごとく痩せている四肢に似合わず、それは荒削りの岩を思わせた。 「弟ながら、記憶力はもう一度叩き直さねばならんな。会ってはいないが、名前は知っている。済まんが睡眠中だ。礼儀正しい挨拶はできない、“人探しのバイパー”婆さん」  音無しの店内がどよめいた。  バイパー婆さんだ。  内辺境一の神隠し破りと外辺境一の|戦闘士《ファイター》が出くわすなんざ、一億分の一の確率だぞ。  おれたちゃ運がいい。 「挨拶なんざどうでもいいよ。で、どうなんだい、返事は?」  婆さんの声は鳥に似ていた。 「待ち人がある」  と、シルクハットの下の顔が言った。 「きっと、この町へ来る前に死んじまったよ」  婆さんは口を歪めて悪態をついた。口腔は黒い穴——歯は一本もない。 「それに、来たって、あんた方と出くわすんだろ。同じこっちゃないか」 「違えねえ」  クレイがのけぞって大笑した。 「だがよ、今度は大仕事でな。ことによったらおれたちも——」  何の前触れもなく眼の前に出現した手の甲を、クレイは口をつぐんで見つめた。 「わかったよ、兄貴——おれは口数が多すぎらあ」  ビンゴの右手がゆっくりと引かれていった。 「どうしても嫌かい?」  婆さんは凄味たっぷりの声を出した。  シルクハットは答えない。 「悪いが、どうでも来てもらうよ」  三人を取り囲む男女の垣根が、ずわり、と後退した。  老婆と二人の男の手もとに視線が集中する。  これから起こることを考えた場合、至極当然の行為だった。  困惑が視線を埋めた。  老婆といえど、辺境に生きるものならば「武器」を持つ。  触れただけで二つに折れそうな腰のやや下に巻かれた「|生存帯《サバイバル・ベルト》」は、幾つものパウチをくくりつけているだけで、通常装備ともいえる幅広ナイフや山刀すらない。  人々の眼を吸いつけたのは、陶製と思える大ぶりの壷であった。大の男の手でもスムーズに入りそうな口には、高分子繊維の蓋がはめこまれているが、空でも相当な重さと見えるのに、この老婆の歩き方、立ち方は平然たるものだ。  背の高い奴が爪先立ちになって、さっきからのぞいているが、蓋は壷と等しい灰色で、中身は皆目わからない。  だが、彼女に対する二人の男も、武器に関する奇矯さでは人後に落ちなかった。  弟分らしいクレイの右腰にくくりつけられたものは、持ち主と不似合いこの上ない品——黄金の胴に銀の糸を張り巡らせた竪琴であった。兄貴分のビンゴとなると、これはどんな品にも勝る驚き——完全な丸腰であった。 “人探しの|蝮《バイパー》”と“戦闘士兄弟ビューロー”  ともに辺境有数の使い手と言われる魔人同士の奇怪な武器が、人間が見てはならぬ異次元の死闘を繰り広げるような気がして、店内の客はみな死者の沈黙を抱いた。  老婆の右手がゆっくりと壷に下がる。  同時に、クレイの手も腰の竪琴に伸びた。  ビンゴは身じろぎもしない。  三本の死の糸が音もなく交わろうとしたそのとき——  黒い山高帽が跳ね上がった。  皺だらけの顔がふり返る。  青い若者の視線は、わずかに遅れた。  ドアであった。  老婆が入ったきり閉じられたままのドアに、三人の凶人が視線を投げているのであった。  誰もいない。  その前には。  彼らは何を見ているのか。  ドア・ノブが回転したのは、そのときであった。  蝶番が砂を噛む音をあげて、扉は壁に開いた闇の領土を拡大していった。  その人影は夜が生み落としたのかもしれなかった。  客たちは後退った。  白い美貌の下にまとう黒衣の色が、砂霧のように吹き込んでくる気がしたのである。  自分に向けられたおびただしい視線の意味など無関係だとでもいう風に、その若者は後ろ手にドアを閉じ、カウンターの方へ歩き出した。  ビューロー兄弟とも、人探しの“|蝮《バイパー》”とも違う異形の存在がそこにいた。  黒い影が歩を進めるたびに、ロング・コートの裾から砂粒がこぼれた。女たちには、それすらも暗くかがやいて見えた。  カウンターの前で止まるとすぐ、人々は青年が洩らす鋼のような声を聴いた。 「ソーントンという客がいるはずだ」  バーテンは生唾を呑みこんでからうなずいた。用心棒兼用の巨躯を強張らせ、声をふり絞るように、 「あんた……Dさん……で?」  返事は必要なかった。バーテンが聞かされていたただひとつの特徴は、疑うべくもなく眼の前にあった。 「奥にいまさあ」  と彼は右手を上げて示した。 「ですが、いま、お愉しみの最中で」  辺境の小さな町では、酒場が売春窟を兼ねている場合が多い。  指さされた方角へ、Dは歩き出した。  十歩ほど進んだとき、 「お初にお目にかかる」  と、ビンゴの声が言った。 「おれはビンゴ・ビューローという。こっちは弟のクレイ。少しは知られた名だ。辺境一の|吸血鬼《バンパイア》ハンターに、ひと言挨拶がしたいものだが」  ビンゴは立ち止まった影の背を見ていた。  体躯同様痩せこけた顔は、凄まじい髯に覆われていた。  石に刻まれたような表情がかすかに動いた。  足を止めたのが気まぐれだったかのように、Dは歩きはじめていた。 「ほお」  人目もはばからぬばかでかい感嘆の声が上がった。 「こりゃ驚いた。ビンゴ・ビューローの誘いに、背を向けたままの男がいるとはねえ。——気に入った。気に入ったよ、あたしゃ」 「待たねえか!」  老婆の声を破壊するように叫んで、クレイが立ち上がった。  若い凶相にどす黒く血が昇っている。右手は優雅な武器にかかっていた。  その腹に、細い手が触れた。 「やめておけ」  兄の命令は絶対なのか、不平ひとつ洩らさず、たくましい身体から噴き出す怒気は急速に四散した。 「じき、おれは眠りから覚める。もう一度、眠っているときに挨拶をしてもらおう」  無数の眼の中で、老婆のそれだけが光った。  奥の部屋のドアが開き、人型の闇を呑みこんで閉じた。  狭い室内は、淫靡な香りに満ちていた。丸テーブルの上に置いた金属壷の穴から、細長い煙が立ち昇っている。嗅いだものすべてを、老若男女の別なく欲情の獣と変える、辺境区独特の媚薬であった。  テーブルの向こうに、毒々しい色を無造作に塗りたくった派手なベッドが置かれ、その上でひどく艶めかしいものが蠢いていた。  複数の女の裸体である。  どれも汗にまみれ、侵入者の方もふり向かないのは、無論、媚薬のせいであろう。  絡み合う肉の向こうで何が行われているのか、熱い喘ぎばかりが宙を漂う中で、白い女体の真ん中から、ひょい、と黒い頭が持ち上がった。  若いとも中年ともつかぬ顔立ちの男であった。  Dのノックに応じたのは彼であろう。  まといつく女たちを荒々しく押し離しかけ、その手を止めると、まじまじとDを見つめた。 「これは……人の噂などあてにならんな。……身の毛がよだつほどの美しさだ」  それから、あわてて、 「こら、どけ」  と女たちを押し退けはじめた。  一メートル五十センチもありそうにない小柄な|肉体《からだ》には、たっぷりと脂肪がのっていた。美味飽食に明け暮れている証拠だ。  前も隠さずパンツから身につけ、ガウンをまとうと、なかなかに貫禄のある男だった。  上衣の胸ポケットから分厚い眼鏡を取り出してかける。——「都」の学者といっても通用しそうである。 「遠路の来客を迎えるには礼を欠いた場所だが、こんなに早く会えるとは思わなかったものでな」  ここで、ちらりと壁の電気時計を見て、 「いや、時間は確かだ。ただ、ホテルで、街道には移動妖気が現れ、二日間は誰も通れんと聞いたが……そうか、私の約束した相手は、吸血鬼ハンター“D”だったな」  この男には珍しいことなのだろう、およそ不釣り合いな微笑を口もとに浮かべてみせたが、黒衣の若者は顔の筋肉ひと筋動かさず、ついにソーントンは肩をすぼめて、 「そうだな、仕事の話をしよう」  このとき眼をそらしたのは、気持ちを変えるというより、Dの顔を正視しているのに耐えられなくなったためである。  この若者の美貌を長いこと見つめていると、男女を問わず、深い瞳の中に吸いこまれそうな幻覚に捉われる。  現に、小男に押し退けられた女たちは、彼に文句を言おうとしてDを視界に収め、ぽかんと口を開けて硬直したきりだ。 「さあ、出て失せろ。料金は倍払ってやる」  小男——ソーントンに押し出されても、女たちは最後まで、虚ろな視線をDに注いでいた。 「飲むか?」  とソーントンは、テーブルの上に置かれた酒瓶を取り上げて肩をすくめた。 「“|酒はやらん《アイ・ネバー・ドリンク・ワイン》”がダンピールの口癖だったな。悪いが、私は弁護士でもただの人間だ。一杯やらせてもらおう」  なみなみとグラスに琥珀色の液体をつぎ、ソーントンは唇に押しあてた。  喉仏がつづけざまに上下し、荒い息とともに、空のグラスがテーブルに降りた。  神経質そうに手を動かして唇を拭きながら、ソーントンはこう切り出した。 「手紙を出したのは他でもない。君に砂漠を越えてもらいたいのだよ。戻って来たもののいない、この“帰らざる砂漠”を、バーナバスの町まで」 「理由は何だ?」  Dの口が開いた。 「手紙には、おれにとって重要な意味を持つ人物に関する情報を提供するとあったが」 「その通り」  ソーントンは|首肯《しゅこう》した。 「なぜなら、君を砂漠に行かせるというのは、その人物の依頼なのだからね」    2  |深更《しんこう》になって、虫の音は一層、物哀しげな華やかさを増した。  数分後、町が花に埋まるとそれは絶え、再び鳴りはじめては、また消える。  夜は決して終わらず、別れの曲もまた、終焉がないようであった。  町はずれのホテルの一室のドアを、皺だらけの手が叩いたのは、そんなときである。  返事はなかった。  さほど待ちもせず、手はドアを押した。  簡単に開いた。  内側は外の闇と同じ色が占めていた。  とまどうことなく“|蝮《バイパー》”婆さんが右横を向いたのは、ベッドの位置を熟知していたのではなく、闇の中でも昼間と変わらず見えるからであった。 「お邪魔さま」  嗄れた挨拶にも返事はなく、しかし、老婆には、ベッドに横たわる長身の影がはっきりと見えた。 「不用心だね、と言いたいところだけれど、吸血鬼ハンター“D”なら、鍵などあってもなくても同じだろうよ。不粋な目的であんたの前に立ちゃ、どんな奴でも生きちゃあおれない」  浮き浮きしたような声であり、賛辞であった。  返事がないのも構わず、腰を曲げた[#「腰を曲げた」に傍点]影は言う。 「いや、名前だけは知っていたけど、本人がこんなに凄い男だとは思わなかった。男前ももちろんだけど、ビューロー兄弟を無視できる人間がいるなんて、あたしゃ、信じられなかったね。これでもう、決まりだと思ったよ。最初はあの二人に頼むつもりだったんだけど、もういいさ。あんな|尻《けつ》の青い奴らにゃ用無しだ。あんたに決めたよ」  ここで老婆はひと息入れて相手の反応をうかがった。  無しである。  人の形をした影なのかもしれなかった。耳を澄ませても、心臓の音どころか、呼吸音ひとつ聴こえてはこない。  夜目が効かなければ、気配すら感じられないことに、老婆は気づいていた。  普通のものなら、無益な試みに絶望するか、相手の|情《つれ》なさに憤慨するはずだ。  老婆はしゃべりだした。 「あたしが入ってきたときも今も、何の殺気も感じられないね。他のハンターの部屋へ行ったことがあるけど、凄いもんだよ。いつ寝首をかかれるかって緊張しっ放しだから、部屋の外にも、殺気が渦巻いてやがるんだ。どんな大物だってそうだった。あんたはその上さ。誰が来ようと、そいつの息の根が止まる瞬間までは石としか思えない。その代わり、ちょいとその気になれば、ひとにらみで、石壁の向こうの敵だって金縛りにしてしまう。ま、そんな気になるなんざ、一生に一度あるかないかだろうけどね。それでこそ、あたしの見込んだ男さ」  婆さんの努力は報われたというべきであった。 「——何の用だ?」  影の影が問うたのである。 「もう言ったじゃないのさ。来て欲しいんだよ。あたしたちと一緒に、砂漠の果てのバーナバスの町へ。料金はたんまりはずむ。酒も女も好きなだけ楽しむがいいさ。こんないい話を断るとは言わないだろ?」 「断る」  簡潔な答えに、断ち切るような凄絶さがあった。 「な、何故だい?」 「帰れ」 「冗談はおよし。あたしゃ、こんなにあんたを買ってんだよ。それとも何かい、婆ぁの言うことなんざ聞けないって言うのかい? ようし、見ておいで。あたしゃ、こう見えても辺境中に顔が広いんだ。あんたほどじゃないが、それなりの|手練《てだれ》を何人も知ってる。一声かけりゃ、何もかもうっちゃって駆けつけてくる連中だ。いくらあんただって、百対一じゃ——」  老婆の声は中断した。  何かに押されるように、腰の曲がった姿は後方に跳んでいる。  想像を絶する鬼気の放射に耐えられないのか、猛スピードで外へ飛び出す。廊下の光が流れ込んだ。 「よしとくれ!」  と叫んだ。哀願と言っていい。 「おまえさん、あたしを殺す気かい? もう百を越えてるんだ。心臓麻痺を起こしたらどうするつもりさ?」  それでも鬼気は忍び寄ってくるのか、 「やめとくれ! この娘も——この女の子も死ぬよ!」  と叫んで、ドアの陰に回るや、もうひとつの影が押されるように四角い空間に現れた。  闇を見通す視力の持ち主なら、粗末な肌色のワンピースの下のやわらかな|輪郭《ライン》と、背にかかる黒髪で、十七、八の年齢まで見抜いたかもしれない。  娘が自分の両肩を抱いた。  声もなくうずくまってしまう。鬼気に容赦はないのだった。 「やめとくれ!」  ドアの陰から老婆が叫んだ。 「この娘はタエ——隠されっ子だよ! しかも、相手は貴族なんだ!」  硬直していた娘の身体が不意に崩れた。  片手を床につき、小刻みに息を吐く。  それなりに整った顔は石の無表情を刻んでいた。小さな呼吸すら息を荒らげることを恐れているようだ。四方から、押し縮められているような印象の娘だった。  ひょい、とドアの向こうから老婆の顔がのぞいた。  深刻そのものの表情である。  ゆっくりと出て来た足取りも重く哀しげだ。  娘の背後に回り、両手を白い肩に載せた。部屋の奥の闇に向かい、 「あたしの商売はご存知かね?」  と訊き、すぐ、返事などありっこないのに気づいたのか、 「人探しだよ。|蝮《バイパー》ってのが綽名さ。だけど、その辺をゴロゴロしてるただの孤児探しとは違う。あたしの専門は、神隠しに遭った子供——隠されっ子探しさ。おっと、こんな場所じゃ落ち着いて話もできない。ちょっくら、入れてもらうよ。ほら、お立ち」  娘——タエを促して立ち上がらせると、さっさと部屋へ再侵入し、ドアを閉めてしまった。あまつさえ、椅子を引き、 「ほら、おかけ」  とタエをかけさせ、自分も別の椅子に腰を下ろしたのは、厚かましいを通り越してあっぱれなものだ。  それでも、横になったきりのDに、無礼だと文句をつけないのは、いまの鬼気が身に沁みているのだろう。 「この娘は——」  言いかけたとき、 「貴族、と言ったな」  闇に|主人《あるじ》の声が流れた。 「そ、そうともさ」  老婆は歓喜を押さえて言った。 「正真正銘、貴族の隠されっ子だ。グラディニアの城で、死ぬ思いして救い出したんだよ」  隠されっ子とは、あらゆる超常現象の入り乱れる辺境においても戦慄すべき意味をもつ。  単なる営利誘拐とは異なり、衆人環視の中で、あるいは、消失などあり得ぬ状況から忽然と消え去る者たちは老若男女を問わなかったが、それがうら若い娘たちに限られる場合は、十中八九、ある恐るべき運命が連想され、誰もが涙を涸らせ恐怖に身を震わせるのだった。  消失原因の大多数は、不定期に発生する次元渦動や未知の生物によるものと推定されるが、ここに「貴族」という名の要因が入り込んできた場合、恐怖は「失踪」それ自体ではなく、その「結果」に収斂する。  うら若い娘たちに、どのような運命が与えられるのか。  血の嗜好を満たす餌食ならまだ救われる。  貴族の気まぐれが下女の仕事を与えるならば、さらに幸運だ。  そうやって、救われる娘たちもままある。  ただ—— 「えらい目に遭ったよ」  と老婆は唇を歪めた。 「防御機構はつぶしたつもりなのが、ひとつ残っててさ。夜まで眠らされちまった。ま、あたしもそれなりの心づもりはしてったから、奴が棺を出る途中で心臓をぶち抜いてやったけどさ。それでも無茶苦茶に暴れやがって、おとなしくなるまで三時間も刺しっぱなしにしとかにゃならなかった。それから家探しして、やっと見つけ出したのが、この娘さ。安心おし。あたしが調べた限りじゃ、おかしなところはないよ。発狂寸前まで深層催眠にもかけてみたんだ。もちろん、陽の光の下も歩けるさ」 「どうやって見つけた?」  Dの問いに抑揚はない。タエがぞくりと震えた。婆さんは肩をすくめ、 「別に大したこたぁないさ。地下へ降りて行ったら、人間用の牢があってね。そこに閉じ込められてたのさ。いろいろ訊いてみると、下女としてこき使われてたらしいよ。後はわかるだろ。頭の方は正常だったから、自分の家も覚えてた。グラディニアの治安局には両親からの捜索願いも出てた。で、あたしが送ることになったわけさ。これが仕事でね」  これ[#「これ」に傍点]に誇りをもっているんだと言わんばかりに、婆さんはうなずいてみせた。 「その貴族——何という名前だ?」  次の質問に婆さんは答えられなかった。それまでの問いとは声も方向も変化はなく、そのくせ、タエに向けたものとわかったのである。  タエの身体が震えたが、俯いた顔はひと言も発しない。  周囲に高密度のシールドが張り巡らされているようであった。  かえって、老婆があわてた。 「何してるの。さっさとお答え。あたしたちが無事、バーナバスの町へ着けるかどうかの瀬戸際だよ」  —— 「もう、この愚図娘」  激昂して右手を上げた途端、腰はぴん、と伸びた。同情を引くための芝居だったらしい。ふり下ろす必要はなかった。 「帰れ」  Dが訪問の終結を告げた。 「ちょっと待って。話はまだ終わってないんだよ」  老婆は憐れっぽい声を出した。ビューロー兄弟を脅しつけた迫力は微塵もない。いっそ心地よい豹変ぶりであった。 「いま言った通りの事情で、あたしたちは砂漠を越えてかなきゃならない。それも期限があってね。明日を入れて四日以内に着かないとまずいんだ。バーナバスの町にいるこの娘の家族が、五日目の朝にゃ別の土地へ移住しちまうのさ。砂漠の広さからしてギリギリの日数だよ。砂漠を迂回してきゃ、どうしたって一週間はかかる。ここは何が何でも、腕の立つ護衛が必要なのさ。あんたもこの町へ来たんだ、何の用かは知らないが、まだ片づいてないんだったら、後回しにして一緒に来ておくれな。いいや、たとえ、嫌だって、あたしゃ、あんたに決めたよ。この娘も気に入ったってさ。ね、おまえ」  相槌を求めたが、娘は強張ったままだ。 「ほらね、あんまり気に入りすぎて、口もきけないんだよ。それにさ、あんた、えらいハンサムだもの。ほっほっ……変な言い方だけど、このあたしだって、もう少し若けりゃ、放っておかないよ、この色男」  無論、Dは微動だにしない。  効果無しと見て、婆さんは作戦を変えた。突然、涙声になった。しゃくり上げる音が闇に響いた。 「あんたあ、この娘が可哀相だとは思わないのかい」  まず、鼻にかかった訴えるような声で、 「十歳のときにさらわれて、八年間も貴族の城に閉じ込められてたんだよ。その間、何をされたかは、あたしも知らないけどさ。訊けやしないよ。そうだろ? でも、この娘は何とか生きてきた。あたしたちが想像もつかない環境で、女の子がひとり、八年間も生き抜いてきたのさ。これから一生、しあわせになる権利もあろうってもんじゃないか。家族が健在だと知ったとき、あたしゃ涙が出たよ。この娘の生活は、これからはじまるんだ。そのためにできるだけのことをしてやろうと、あんた、思わないのかい?」  一気にしゃべりまくり、婆さんは息をついた。眼に涙が光っている。大したものだった。  返事は短かった。 「帰れ」  有無を言わせぬ響きであった。  何か言いかけ、婆さんはあきらめた。 「そうかい、わかったよ」  聞いたもの全員が眉を吊り上げかねない憎々しげな口調で吐き捨てる。 「今夜のところは引き揚げるけど、あたしたちゃ絶対にあきらめないよ。あんたが要るんだ。どんな汚い手を使っても、一緒に来てもらうからね。——おいで、タエ」  憤然とドアの方へふり返り、婆さんは小さく、しまった、と洩らした。腰が急に曲がった。  俯いた少女の手を取り、強引に廊下へと消えた。  部屋中を震撼させて、ドアが閉じられた。  その余韻が空気と構造材に吸収され、束の間の沈黙が闇を占めたとき——  鳴りはじめた。  虫の音が。  遠く、小さく。  闇をついばみ、聴くものの胸をついばみ。  深い土の中に横たわりたくなるような音。  去りゆくものに別れを告げるための曲は数多い。それなのに、誰が虫の紡ぎ出す調べを、葬送の曲にたとえたのか。  わずかの間それがつづき、やがて、小さな窓の外を薄桃色の花びらが舞い踊りはじめても、ベッドに横臥した人影に変化はなかった。  別れの曲も葬送の調べも無縁だと言うように。    3  翌日は風の世界だった。  切なげな音が鳴るたびに、街路は黄金の砂を皮膜のように揺らめかせた。  怒号がホテルを包んだのは、早朝であった。建物の周囲とロビーとを埋めた人数は、小さな町の全住民とも思われた。  ホテルの支配人が要求されたのは、宿泊中の吸血鬼ハンターを即刻、追い出せということであった。  最初は渋っていた彼も、事情を聞いて納得した。  した[#「した」に傍点]ものの、地上最強のハンター相手は気が重いのか、フロントから階段へと向かう足取りはのろかった。  背後につづく町民は、みな武装している。その顔が紙の色なのは、数が頼みとはいえ、彼らもまた、ハンターの実力を|知悉《ちしつ》した辺境の人間であるためだ。  杭射ち銃や長槍を握りしめた指は固く、冷たく、そして汗ばんでいた。  ドアを叩かずに済んだことは、支配人の幸運と言えた。  恐る恐るふり上げた手の前で、ドアはきしみつつ開き、部屋の主が姿を見せたのである。  ひっそりと自分たちを見つめる美貌に、町民たちは殺意も忘れて陶然となった。  Dの旅仕度に気づいたのは、支配人である。  安堵の手を胸にあて、 「ご出立で?」  と訊いた。 「休んでもいられまい」  Dの眼は静かに、廊下に溢れた男たちを眺めた。渦巻く殺気はすでに消滅し、一種の虚脱状態が彼らを支配しつつあった。  最初の一瞥によって。  Dが歩を進めると、人垣は見えざるものに押されたかのように左右に分かれた。  壁に貼りついた男たちの眼には恐怖の色しかない。  Dは階段を下りた。  ホールは狂暴な人間の坩堝であった。  それが、古代の海峡のように左右に分かれ、吸血鬼ハンターとドアとを結ぶ一本の道を開いたのである。 「お勘定はいただいております」  背後で支配人が言った。  Dは外へ出た。  街路には風と人影と、恐怖と憎悪を染め抜いた眼。  ホテル脇の小屋に入ったサイボーグ馬の手綱を取ったとき、背後から陽気な声がかかった。 「これだけの連中をビビらせるとは大したもんだな、え?」  屈託のない笑いを浮かべるクレイ・ビューローの方を見ようともせず、Dは鞍にまたがった。 「待ちなよ。おれたちもここを出るんだ。ご一緒しようじゃねえか」  クレイは少し慌てた。夕べの狂気じみた感じは霧消している。彼も馬の背で手綱を握っていた。 「兄貴は町はずれで待ってる。なに、仲良くやろうってんじゃねえんだ。おめえと決着をつけてえのよ」  飄然と歩み去るDの後を追って、クレイは馬の腹を蹴った。  ひと鞭当てて、Dの左横へ並ぶ。 「こりゃ、驚いた。さすがだな」  と眼を丸くした。心からなる感嘆の言葉だった。 「おめえの剣は右肩から抜く。左へおれを入れたら、馬ごとこっちを向かにゃ斬れねえぜ。そんなこと気にもかけねえほど自信があんのか? それとも、単なる馬鹿か? 断っとくが、おれはこっちが利き側だぜ」  利き側とは利き手と同じ意味であろう。クレイの竪琴は右腰についていた。  すい、と手が弦へ伸びる。 「試してみるか?」  手は空中に固定された。  Dのひと言であった。  彼はただ馬上に揺られていく。  クレイの馬が止まるのを人々は見た。片方の人馬は悠々と行きすぎる。  Dは角を曲がった。砂漠と町とを隔てる大門が砂塵にかすんでいた。  そこまでは一直線である。  Dは無言で進んだ。  門の両側に巨大な影が天に挑んでいた。  濃紺の巨木であった。  数千匹の大蛇が身をくねらせ合ったような幹には、無数の亀裂が走っていた。  枝はない。もちろん、葉も。  二本の巨木はとうの昔に枯死しているのだった。  右側の巨木のかたわらに、馬にまたがったシルクハットの影。  左側には、楕円形の幌をつけた馬車。  強化プラスチックのフードが三方を覆う御者席には、バイパー婆さんとタエが腰を下ろしていた。  どちらもDを待ち——  どちらにも一瞥も与えず、Dは通過しようとした。 「弟が迎えに出たが」  とビンゴが言った。  まだ「眠り」についてでもいるのか、黒い山高帽を被った顔は、深々と俯いている。  眠りながら話す声は、茫洋としていた。 「やはり、ハンターD相手では、荷が重すぎたようだな。いずれゆっくりと時間をとってもらいたい。おれたちも、あんたと同じ道を辿る。よかったら一緒にどうだ?」  猛禽が洩らしたような嘲笑が、砂煙を吹き飛ばした。 「ほうっほっほっほっほ。——この若いのが、他人と旅なんかするもんかい。戦闘士ビューロー兄弟も耄碌したもんだね。この男はいつも独りぼっちさ。生まれたときも、生きるときも、死ぬときも。ひと目見りゃ、わかりそうなもんじゃないか」  婆さんは、眼前を行き過ぎる白い横顔に、恍惚たる眼差しを向けた。 「でもね、今度は例外にしてもらうよ。あんたの目的は知らないが、砂漠を抜ける以上、行く先はバーナバスの町しかない。あたしたちと同じ場所さ。一緒に来るのは嫌でも、あたしたちがついて行くのは勝手だからね」  じろりと、ビンゴの方を睨めつけ、 「ふん。何のつもりか知らないけれど、余計な奴まで一緒ときた。断っとくが、Dに手を出すのはあたしたちを同じ目に遭わせるってことだ。おかしな真似したら、あんたらの敵はひとりじゃないよ」  大の男でもすくみ上がりそうな声で言い、婆さんは手綱を引いた。  四頭立てのサイボーグ馬の首に巻いた金属環に電流が通じ、アドレナリンの分泌を促す。  通りへ出る馬たちの鼻面を、分厚い熱風が叩いた。  左右に開いた大門の向こうに、Dの影が遠ざかっていく。  馬車が追った。  一分ほど遅れてビンゴの馬が。  クレイの姿が門をくぐったのは、さらに五分を過ぎていた。  彼が出てすぐに、町のあちこちで、哀しげな音が鳴りはじめた。  風を別れの歌とするならば、虫の音は葬送の曲。  そして、それすらも、じきに熄んでしまうのだった。  婆さんの幌馬車はすぐ、Dの右隣に並んだ。  黄金の大地がどこまでもつづいている。空は鉛色であった。  この砂漠を覆う厚い雲の天蓋が、陽射しを通すことはほとんどない。  ここ五十何年かに一度だけ目撃されている。天と地の交わる一線の何処かに、雲海を突き破ってこぼれる数条の光の帯は、たとえようのない美しさだったと言う。  あるものは、その下に町があると言った。  それから、再び光はささなかった。 「おや、あの二人、本当についてくるよ」  フードを下げ、婆さんは全面確認鏡をのぞき込んで言った。  十数枚のレンズを、特殊な角度に折り曲げた環にくくりつけた鏡は、馬車の四方ばかりか、地面と上空までを鮮明に映し出すのだった。  背後を担当するレンズに浮かび上がった人影は、言うまでもなくビューロー兄弟のものだ。 「なんで、あいつら、あんたを尾けてくるんだと思う?」  婆さんは額の汗を拭いながら訊いた。  陽は通さなくても熱は通過させ、しかも、逃がさないのが、この砂漠の特徴だ。 「戦闘士の血が、自分より強いものを見つけて騒ぐって? ほっほ、そんなきれいごとであるもんか。——あんた、ホテルを追ん出された理由がわかるかい?」  Dは答えない。どうでもいいことなのだろう。チェック・アウト時に宿を出ただけかもしれない。町民が何をしようと、彼には無関係なのだった。現に、何もできはしなかったのだから。  婆さんは、あきれたように宙天を仰いだ。 「驚いたね。町の奴ら、本気であんたを殺す気だったんだよ。あんたにも、ようくわかったはずだ。それなのに、理由を知りたくもないのかい?」  答えを少し待って、婆さんは肩をすくめた。 「いいかい、あの二人には気をおつけ。町の連中があんたを狙った理由は、町はずれに住んでる農場主の娘が、夕べ、血を吸われたからなんだ。今ごろは隔離されてるだろうけど、今朝それに気がついて、奴ら、あんたの仕業と邪推したんだよ。なんてったって、あんたは世にも隠れなき吸血鬼ハンター“D”。正真正銘のダンピールだからね」  言いながら、婆さんは手綱から左手を離し、足もとに置いてある水筒を口に押し当てた。  温度は急速に上がりつつあった。  人間の住む世界が遠くなった印だ。 「あんたが、そんなに意志が弱いエセ貴族じゃないことは、あたしならひと目で見破れるさ。だけど、世の中そうはいかない。奴ら、頭に血が昇って、何もかもあんたのせいだと考えた。それで、一大デモンストレーションをぶちかましたってわけさね。なあに、血を吸われたなんて、ほんとかどうか知れやしないよ。あんな傷口、その辺のヤブ医者でもたやすく偽装しちまうからね。娘には麻酔薬の一本も射っときゃ、貴族に血ぃ吸われたと同じ症状で四、五日は飯も喉を通らない。——あいつらだよ」  婆さんは顎をしゃくった。 「あいつらがやったのさ。あんたを追い出すために」  Dの唇がかすかに動くのを見て、婆さんは会心の笑みをこらえた。 「何故、おれを追い出す?」  興味があるのかないのか、さっぱりわからない口調である。  風か石の言葉に似ていた。この若者なら、さしずめ——風だろう。 「そんなこと、あたしにはわからないよ」  婆さんはにやにや笑いながら言った。 「あいつらに訊いてみりゃあいい。なんたって、あんたを尾けてくるんだからね。ただし、あたしの希望としては、喧嘩なら旅が無事終わってからにしておくれ。こんな貴重な護衛を、あたしゃ失くしたくないからね」  いつの間にか護衛にされてしまったが、Dは怒った風もなく、 「じき[#「じき」に傍点]だぞ」  と言った。  その言葉が、婆さんを驚愕させた。 「何か来るってことかい? あんた、この砂漠を渡ったことがあるのかね?」 「昔、この砂漠を渡った旅人のメモを読んだ」  Dの眼は前方を見つめている。  風はない。  灰色と|黄金《こがね》の連なりだけだ。  気温は摂氏四十度を越している。婆さんは汗みずくだ。 「内容が確かなら、メモの主は半分までは渡りきった」  とDはつづけた。 「——そこでやられたのかい? 原因は何だね?」 「おれが見つけたとき、白骨化した手だけがメモを握って、岩の間から突き出ていた」  婆さんは肩をすくめた。 「どっちにしろ、あんまり役には立たないね。あんたもそこまでは行ったんだろ?」 「おれが見つけたのは、ミシュガルトの石塔群の中だ」  婆さんは眼を剥いた。 「ここから五千キロは離れてるよ。……そうかい、そういうことかい。なんて、面白い砂の海だろうね。で、どうすればいい?」 「自分で考えろ」 「ま」  憤然と食ってかかろうとした婆さんの眼の前に、半透明の球体が漂ってきた。  フードに遮られ、プラスチックの曲面が触れると、すっと後方へ移動した。  直径約四十センチ。真円である。  内側で液体らしい多彩色の塊がやわらかく蠢いていた。 「生き物だね。初めて見たよ。——タエ、中へ入っといで」  娘を幌の内側へ追いやってから、婆さんは手もとのラッパ銃を膝上に載せた。  楽器みたいに先端が広がった武器は、軽く引き金を引いただけで、六十グラム近い鉛の弾丸を発射する。  すでに込めてある一発弾を抜き、婆さんは銃の横に重ねられた錫の弾箱から、散弾を取り出して装填した。  勘に頼った選択だが、これが当たった。  前方の何処からか、おびただしい数の球体が人馬と馬車とを包みはじめたのである。 「ほっほっほ。ビューロー兄弟も泡を食ってるよ」  レンズに眼をやって婆さんは微笑した。 「ところで何だい、こいつらは?」 「わからん」  Dはあっさり言った。 「何だって!? あんたはいま、じき[#「じき」に傍点]にこいつらが襲ってくるって言ったじゃないか」 「メモに、こいつらの事はなかった」  婆さんは眼を丸くした。 「——じゃあ、新品かい!?」  婆さんが新たな問いを舌に乗せかけたとき、周囲を光が埋めた。  球体が妖しい|色彩《いろ》を伴って、息づきはじめたのだ。 「ええい、気色の悪い。突っ走るよ!」  叫びざま、護衛と言ったDのことも忘れて思いきり手綱を引く。  サイボーグ馬は一斉に土を蹴った。  凄まじい突進ぶりに、球体は押し退けられ、空気流の翻弄に激しく旋回する。  一気に百メートルを突っ走り、婆さんは馬車を止めた。  かたわらのDに眼を止め、にやりと相好を崩す。 「離れずについて来ておくれだね。何のかのと言っても、やっぱり、あたしたちのことを気にしてくれるのかい。ああ、ありがたい。強い男ってのは、そうでなくっちゃ」  大盤ぶるまいの賛辞を、婆さんは途中で打ち切った。  Dの片手がゆっくりと、後方を指さしたのである。 「射ってみろ」  と彼は低く言った。  その結果を見るために、ついて来たのだろうか。  露骨に顔を歪め、それでも同じ興味はあるのか、婆さんはラッパ銃を持ち上げた。 「おや、あの二人も来るね。ちょっとお待ち」 「今だ」 「え?」  と眼を丸くして、婆さんはDの言葉の意味を掴んだ。  撥ね退けた球体は、音もなく急上昇して、天の高みに消えていくのである。  散弾とはいえ、容易に命中するとは思えぬほどの速度である。  疾走してくるビューロー兄弟にまつわる球体も、たちまちふり切られ、天への道を辿る。 「おっかない男だね、あんた」  掛け値なしの感想を洩らしつつ、婆さんはラッパ銃を肩にあて、御者台から身を乗り出した。  ろくすっぽ狙いはつけなかった。  ばかでかい銃口から、ばかでかい炎と轟音が世界を圧した。  兄弟の頭上で球体が砕け、|飛沫《しぶき》となって跳ねた。  二発目を射つ余裕はなかった。  砂を蹴散らせて接近する二組の騎馬を、Dと婆さんは無言で待ち受けた。 「なんでえ、今の奴は? まだ町から五キロと来てねえぜ」  先に口を開いたのは、クレイであった。  ビンゴはうなだれたまま、馬の背に揺られている。  眠りの最中だが、ただの睡眠でないことは、猛烈な疾走にもふり落とされずにここまで来たことで明らかだ。  ビンゴ・ビューロー——眠りながら語る男。  薄気味悪そうに上空の鉛色を見つめていたクレイの眼が、婆さんを捉えた。  婆さんは身を屈めていた。  ラッパ銃を隠しているところである。 「おい——くそ婆ぁ」  とクレイが声をかけた。横目でDの様子もうかがいながら、 「よくも、ふざけた真似してくれたな。おかげで、大事な帽子がこの様だ」  脱いで下から指を突っこんだ。  頭頂に近い部分から、指先がのぞいた。  散弾が貫通したのだ。いっぱいにかぶっていたら、額に命中していただろう。  子供なら泣き出しそうな憎悪の眼差しを前に、婆さんはどうしたか。  破顔したのである。  それも、これ以上はどんな愛想のいい女でもやれっこないと思えるくらい、好人物そうに。 「運がよかったねえ」  と婆さんはしみじみと言った。あっけにとられるクレイへ、 「でも、射てって言ったのはあたしじゃないよ。そっちのハンサムさ。言われた通りにしなきゃ斬られるかもしれないと思ってねえ」  これは事実である。 「本当か?」  クレイがDに訊いた。今までとは打って変わった静かな声である。やる気[#「やる気」に傍点]らしかった。  Dの答えは——答えではなかった。 「奴らの中身を浴びなかったな」  クレイたちをそろって視界に収めて言う。  クレイは、小さくうなずいた。 「そうかい。それが目的かよ。——残念だったな。あんなもの浴びちゃ、ビューロー兄弟の名がすたるぜ」 「その代わり、次に出て来たときに手が打てん。浴びても生命には別条なかったかもしれんぞ」 「んなこと、どうしてわかる!?」  クレイが叫んだ。 「勘だ」 「ふざけるな!」 「やめておけ」  ビンゴの声は、空の色と等しかった。 「ハンターDの勘だぞ。おまえは濡れてもよかった」 「よしてくれ。兄貴までそんな!?」  逆上するクレイへ、婆さんもなだめるように声をかけた。 「よしなよ。現に無事だったんだから、いいじゃないか。仲間割れはよしとくれ」  沈黙が落ちた。  しみじみとしたものではなく、驚愕のそれであった。 「いつから、てめえらと仲間になった?」  クレイの顔にますます血が昇った。 「あんたらが、町を出た瞬間からさ。お互い五百メートルも離れちゃいないし、目的地はひとつだ。それに、この砂漠で待ってる物騒な連中の半分は、ミスターDの頭の中に入ってるらしいよ」  口をつぐみ、クレイは兄の方をふり向いた。 「本当かな、兄貴?」  と訊く。騙されやすい客が、インチキ透視術者へ質問するような口調であった。 「わからん」  ビンゴの首は横にふられた。 「だが、この際、一緒に行くのは後々便利でいい。旅は道連れと言ってな」 [#改ページ] 第二章 闇に光る眼(まなこ)    1  それから、何事もなく夜になった。  馬車のフックに馬をつなぎ、一同は砂丘の陰で夜営することにした。  一種の重厚さが世界を領していた。  闇がすべてを塗り込め、そのくせ、天空の鉛雲は決して晴れず、一同の頭上にのしかかっていることがはっきりわかるのだった。  誰も口をきかず、洩れる息だけが白かった。  温度は急速に下がりつつある。 「なんて砂漠だよ」  と、やや固めの砂の上に電子ストーブを出して暖をとっていたクレイが吐き捨てた。 「昼間はかんかん照りで、夜になりゃあ冷える。そいつはいいが、その差が三十度以上もあるときてやがる」 「その代わり、いいこともあるさ」  と、クレイの電子ストーブに手をかざしながら、婆さんが口をはさんだ。 「なんでえ、馴れ馴れしく、人のストーブにあたるんじゃねえ。てめえの馬車にゃ暖房システムがねえのかよ」  と凄味をきかせたが、婆さんはビクともせず、 「男のくせに、ケチくさいことお言いでないよ。そんな根性だから、ちょっと寒いぐらいで、ぴいぴい泣き出すのさ。寒いこた寒いけど、ごらん、昼間と違って砂粒も低温域で質量が増すから、砂煙もたたない。第一、風もないんだからね」 「まったくだ」  低く相槌を打ったのは、クレイから二、三メートル離れたところにいるビンゴである。これではクレイも婆さんに反論はできない。  しかし、この兄はどういう男なのか。彼はストーブのそばにはいなかった。いや、横になってさえいない。普通の者なら三時間も乗れば下半身が麻痺しかねない固い鞍の上で、彼はサイボーグ馬にまたがったままなのであった。  婆さんが薄気味悪そうに、 「変わったとこ[#「とこ」に傍点]が好きだね、あんたの兄貴」  とつぶやいたのも無理はない。 「いいや。——変わってるのは、あいつさ」  クレイが、婆さんの車の方へ顎をしゃくった。  馬車と並べてサイボーグ馬をとめ、Dはそのかたわらの砂丘に背をあて、一刀を左手に眼を閉じていた。 「なんとも、凄まじい独りぼっちだぜ、あいつぁ。自分から世の中に背え向けてるんじゃねえ。来るものは拒まず去るものは追わずって域に達してやがる。だけどよ、どんな相手だって、あいつを見りゃ身を避ける。もの凄え匂いを漂わせてるからな」 「匂いねえ」  老婆も、クレイの視線を追ってうなずいた。 「血の匂いをね。孤独の匂いをね。だけど、あんたにゃまだ、わかってないね」 「何のこった?」  クレイは眼を剥いた。 「その通りだ」  と馬上から黒い細い影が告げた。 「なんでえ、兄貴まで。弟よか、婆ぁの肩を持つのかよ」  クレイの不平が終わらないうちに、Dが音もなく身を起こした。身を寄せていた傾斜から砂粒が波のようにこぼれる。  両眼を閉じたまま直立し、彼は彫像のごとくその場へ硬直した。 「なんでえ?」  クレイが眼を細めた。婆さんの顔も強張る。  周囲に動くものの気配はない。凍てついた夜。それだけだ。  Dの輪郭が崩れた。  立ち上がったときと同じく、素っ気ない動作でもとの位置に腰を下ろす。  クレイと老婆は顔を見合わせた。 「なんでえ?」  とクレイがもう一度言った。  老婆はDの方へ近づいた。 「なんか、あったのかい?」  と訊く。  Dは眼を上げもしなかった。 「砂が落ちた」  と言った。 「砂?」 「この砂漠……知識という奴は当てにならんな」 「何か感じたのかい?」 「この先はもっと危険だ。余計な気は遣わんようにしろ」 「そうかい。——じゃ、まかせたよ」  老婆はそれ以上、つきつめなかった。このハンターにまかせておけば間違いない、と考えているのだ。信頼よりも合理性に近い感情である。過度な知識を身につけなければ、すべてDに肩代わりさせられる。  鼻孔から不意に冷たい空気がとびこみ、婆さんは大きくくしゃみをした。 「おい」  とクレイがDに呼びかけた。 「おめえ、この砂漠に結構詳しいのかい? なら、この先どんなもんが待ってるのか教えてくれよ。旅は道連れ、同じ道を通るんだ。利益になることは分かち合おうじゃねえか」  半ば喧嘩腰である。  Dは身じろぎもしない。 「おい、とぼけてんじゃねえよ。独り占めする気か?」  クレイはあきらめなかった。砂漠を渡る際、凶暴な生物に関する知識は、文字通り生死の分かれ目となる。彼も必死なのだ。 「待ちなよ、二人とも」  婆さんが口をはさんだ。 「まだ初日が暮れたところじゃないか。こんなに早く仲違いしたんじゃ、道連れになった意味がなかろ。ねえ、D、考えてみりゃ、こいつの言うのももっともだ。何も知らんじゃおちおち砂の上も歩けないだろ。少しは教えておやりよ」 「少しじゃねえ。全部だ」  クレイの声に落ち着きが加わった。  戦いも辞さぬ、というわけだ。右手は腰の竪琴にかかっている。 「ねえ、D」  婆さんが促した。  クレイの人差し指が弦にかかる。  くい、と一本を引いた。  止まった。  彼はDの眼が開くのを見たのである。  冷たい水が首筋から腰まで噴いた。  そんな眼であった。 「知ったら、おまえが先に行かねばならんぞ」  地を這うような声が言った。 「わかってらあな」  クレイは鷹揚にうなずいた。強がりではない。余程の自信があるのだろう。 「おめえに先に行けなんて、ケチなこた言わねえ。真っ先に何処へでも駆け込んでやるぜ。安心して話しなよ」 「動く森」  とDは言った。唇から洩れる息の白さが、自分たちより遥かに薄いことに、クレイは気がついた。 「メモが確かなら、南西へ二十キロの地点にある。だが、動く森[#「動く森」に傍点]だ」 「どこへ行ったかわからねえってんだな。けけ、こいつぁお笑いだぜ」 「メモの主は移動ぶりを遠くから目撃しただけで近寄らなかった。幸運だったのか不幸だったのかはわからん」 「ほう」 「もうひとつは——人間だ」 「何だって!?」  眼を剥いたのは婆さんであった。これ以外のどんな言葉をDの唇が洩らしても驚かなかったろうが、これは——。 「この砂漠に人間が? 冗談お言いでないよ」 「メモにはそう書いてあった」  Dは静かにつづけた。 「総勢約三十名。ここから二百キロほど南で、サイボーグ馬に乗って攻撃してきたそうだ。旅人の仲間が十人近くやられ、金品と遺体を奪われた」 「遺体を? 何のためにだい?」  Dは答えず、 「もうひとつ。——奴らは射っても切っても死ななかったそうだ」  沈黙が落ちた。  ビンゴの上体が馬上で揺れた。 「不死身か」  低く言った。眠たげな声で。 「それだけだ」  Dの眼は閉じられた。  クレイが肩をすくめた。 「大したこたあねえよな、兄貴」  と、馬上の影を向いて言う。安心しきった声であった。砂漠に巣食う獣や不死身の群盗団など、彼らにとってみれば何ほどのこともないのだろう。 「おれは、こっちの方がよっぽど怖いぜ」  クレイは馬車の方へ顎をしゃくった。  中にはタエしかいない。  神隠しに遭った子の意味を知らぬものはない。  馬車のドアが開いたのはそのときだ。  クレイが、まずい、という風に顔をしかめ、不精髯を撫でた。  タエは俯いていた。それがこの娘の癖になっているらしかった。いつも眼を伏せ、運命に耐えてきたのかもしれない。 「|内側《なか》に入っといで。外は寒いよ!」  婆さんが叫んだ。叱咤には憎悪がこもっていた。神隠しに遭った子を探すのが仕事とはいえ、探し出した相手にどんな感情を持つかは自由というわけだ。 「なに、構うこたあねえ」  と、クレイが皺くちゃ顔を横目で睨みつけながら言った。 「暖房をやたらきかしてるより、よっぽどすっきりするぜ。それによ、人間にゃ何をしでかすかの自由だってあるんだ。他人に命令されるこたねえやな。こんな色気のねえ旅の仲間に、可愛い姐ちゃんが入ってくるなんて、大歓迎だぜ」  バイパー婆さんの素姓を知っている以上、娘の境遇も心得ているはずだが、クレイの声に怯えや嫌悪はない。この男は自信満々のままで死ぬだろう。  タエはすぐ引っこんだ。  クレイが口笛を鳴らした。 「別嬪じゃねえか。名前は何てんだい?」  浮き浮きと婆さんに尋ねる声を、凄まじい形相が迎えた。 「断っとくけどね」  地を這う毒煙のような声であった。 「あの娘はあたしの商品だ。おかしな真似をしたら、地獄で牝の悪魔を口説くことになるよ」 「おめえのまずい面見てるより、そっちの方がいいかもしれねえな」  とクレイは毒づいた。 「高い商品にゃ違いねえが、いい|品物《しなもん》とは限らねえ。家に戻った隠されっ子にどんな奴が多いか、あの子がそのひとりじゃねえことを祈るんだな」 「余計なお世話だよ」  婆さんが嘲笑するように言った。 「あたしの仕事は、家へ送り届けるまでさ。後は知ったこっちゃないやね。そのかわり、そこまでは死んでも責任を持つ。誰にだって、おかしな真似をさせやしないよ」 「面白え」  クレイが舌なめずりをした。 「じゃあ、おれも誓わせてもらうぜ。この旅が終わるまでに、おめえの大事な商品を傷ものにしてみせるとな」 「ほう、そうかい」  婆さんの眼が徐々に大きく見開かれていった。 「よさんか、クレイ」  渋い声が緊張を破った。ビンゴである。 「どうやら、ここは早く発った方がよさそうだ」  クレイだけではなく、婆さんも、細長い影が顎をしゃくった方向を眺めた。  世にも美しい人型の周囲で白い砂が崩れ落ちていく。  帯刀を背に回しつつ、Dは闇の一点を眺めていた。 「今度は何だい?」  クレイが愉しげに訊いた。 「見えるか?」  けだるげにビンゴが尋ねた。 「蝶だ」  Dは音もなく馬の方へ歩いた。 「おい、ハンター、尻尾を巻くのか?」  待ってましたとばかりに、クレイが毒づいた。 「突っ切るしかないか?」  ビンゴの問いに、Dは答えず、 「おれの出番ではなかろう」  真っすぐ婆さんを見つめた。 「こっちの芸はお見通しかね」  婆さんは眼を丸くした。 「あたしのやり方も、こう世間に知られたんじゃ、様変わりさせなきゃならないよ」  Dが馬にまたがると同時に、婆さんも馬車の座席に乗った。  訳がわからんといった表情で、クレイも鞍の|鐙《あぶみ》に足をかける。  全員が目をこらしたが、何も見えない。  闇はすべての音を呑んで沈黙の境地にいた。  Dが数歩離れた。 「お待ちよ。共同作戦じゃないのかい?」  婆さんが声をかけた。 「勝手についてきたはずだぞ」 「出番じゃないと言ったのは、あたしたちのことはあたしたちにまかせるって意味かい。つくづく、情の薄い男だね」  婆さんの悪態が届かぬ距離へ、Dはもう馬を進めている。  闇の奥から近づきつつある気配——いわば極薄の箔というべきそれを感じたのは、ダンピールの超感覚ゆえか。  ようやく、周囲で風が動いた。  無数の羽根が巻き起こす空気の流れは、しかし、なお異様に軽い。  おびただしい——数千数万匹の蝶の群れであった。  何処に棲み、何を求めて繰り出すのか。それはDをめがけて殺到し、黒衣の長身を闇の色で包もうとした。  白刃が躍った。  風を切る音もなく、すべての蝶が両断されて地に墜ちる中を、Dは疾走に移った。  砂塵を巻き上げ突進する騎馬に、黒い流れは恐れをなしたかのように遠ざかり、しかし、次の瞬間には帯のごとく幅広の一線と化して、その後を追いはじめた。  残りの群れが、一台の馬車と二頭の騎馬を捉えたのは当然の成り行きであった。 「くそ、何だい、こりゃ!?」  御者台で婆さんが悲鳴をあげた。 「虫ケラが、しゃらくせえ!」  クレイが顔を覆った数匹をむしり取って叫んだ。怒り狂ったその顔面へ、黒い蝶は間断なく襲いかかる。  ビンゴはすでに黒い彫像だ。  突如、闇色の世界へオレンジの光が異議を唱えた。  三千度の炎を浴びて、蝶たちは自らもその燃料と化した。  火龍の体脂肪を詰めたタンクと、皮製の圧縮ポンプを御者台に引っぱり出し、婆さんは強化プラスチックのノズルをふりまわしながら哄笑した。 「さあ、どうだい。『都』特製の火炎噴射器の味は? どんどんかかっといで。燃料はまだたっぷりあるよ」  威勢のよい声に合わせて炎の舌は八方へ乱舞し、蝶たちは紙片のごとく無抵抗のまま焼け落ちた。  バイパー婆さんの奮戦の陰であまり目立たなかったが、十メートルほど離れた場所でクレイとビンゴの二人も蝶を相手にしていた。  奇怪なのは、蝶たちが何もしないことであった。  肉に溶解液を注いで柔らかくする様子もなく、気管を塞いで窒息死させるでもなく、ひたすら襲いかかってまつわりつくのみである。 「畜生め。いくら追っ払っても追ってきやがる。このままじゃキリがねえぜ、兄貴」  返事はない。  ビンゴの全身は黒布で覆われている。弟は顔のをむしり取ったりして抵抗中なのに、こちらは馬上で身じろぎもせず、その結果として、倍くらい太って見える。 「ええい、うっとうしい!」  闇を塗りつぶして飛ぶ蝶たちの内側から、こんな叫びがあがるや、ぽろん、と美しい音が弾けた。  ギターの弦を爪弾いたような音である。  たったひとつの音が空気に溶暗し、波動と化して広がったとき、何が起こったか。  果てしなく湧き上がるかと思われた蝶の群れが、半径三メートルほどにわたって、ことごとく消滅したのである。  また、ひとつ——  美しいとさえいえる音が砕けるたびに、仲間の欠落を埋めんと舞い狂う黒い虫が消えていく。  ぽかりと開いた空間の真ん中には、クレイがいた。右手を腰の竪琴にかけて。  じろりと、兄の方を見た。 「兄貴は安心だ。婆ぁも奮戦してやがる。さてと、あのハンターはどこへ行きやがった」  だが、婆さんはともかく、兄の方は馬ごと黒蝶に塗りつぶされている。  どこが安全なのか。  そのとき——  蝶の群れがすう[#「すう」に傍点]、と遠ざかった。  ただまつわりつくだけで、害を加えるわけでもないから、かえってその方が薄気味悪く、クレイと婆さんは表情を硬くした。  驚きの声は、二つの唇から同時に洩れた。  蝶がかがやきだしたのである。  闇に等しい色が忽然と、その羽根の形を、輪郭を、銀色の光で覆いはじめたのだ。 「——こいつぁ……」  つぶやいたクレイの前で、銀の蝶は数本の太い線となり、絡み合い、悠々と渦を巻きはじめた。  単なる生物の気まぐれな飛翔法則にのっとった模様ではない。それは、明らかに高度の意図と知性が描き出す幾何の図形であった。  直線と曲線、多面体と円が混合し、分離し、ともに存在する。それでいて、あくまでも、空間の一点に収斂する渦なのであった。  どのくらい見つめていたか、その渦の中心に引き込まれそうになり、婆さんとクレイはあわてて眼を閉じた。  数秒がすぎた。 「終わったな」  どちらの耳からも等距離で、冷たい声が鼓膜を震わせた。  同時に眼を開け、二人は五メートルほど前方に立つ騎馬を見た。  D。 「やっぱり、帰ってきておくれだね」  婆さんが、液状脂肪のしたたるノズルを握りしめて歓喜の声をあげた。 「蝶が無害とわかって、戻ってきたらしいな」  クレイが毒づいた。 「知らせにきただけだ」  Dは馬上から淡々と言った。 「ほう。何をでえ?」 「ここから二キロほど先で竜巻が発生した。規模は小さいが、おれたちくらいなら巻き上げられてしまうだろう。あと五分もすればやってくる」  この若いハンターが、蝶の群れをどうやって脱出し、それを見届けたのか、婆さんもクレイも知りたいと思ったが、自然の脅威がすべてに優先した。  火炎噴射器をしまいながら、 「ね、あんた、一緒に行くだろ?」  と婆さんが不安そうに訊いた。  返事はもちろん同じだった。 「ついて来るのは勝手だ」    2  東の方角がわずかに仄白く染まると、落ちる闇と同じ速さで光が降ってきた。  夜明けである。  最初の夜営地から五キロほど西へ移動した砂丘の陰に一行はいた。  馬車のドアがそっと開くと、つつましげな白い顔がのぞいた。  奥から派手な鼾が追ってくる。一同が眠りについたのは、三時間ほど前だ。  タエはぼんやりと周囲を見回した。  格別、怖々ではない。  右手の砂丘の陰に、毛布の塊がひとつ転がっていた。  |長靴《ちょうか》の端がはみ出ている。クレイらしかった。兄の姿はない。馬もクレイの分きりだ。何処へ行ってもおかしくはない男だった。  さらに七〇度ほど回転して、タエの眼は停止した。見開いた瞳に、黒い影が映っている。  Dは砂丘の頂で西の方を眺めていた。優雅苛烈な彫像を思わせる姿には、これから赴く方角だけを望む凄絶さがふさわしいようであった。  タエは馬車から降りて砂丘の方へ歩き出した。  老婆に操られるまま、人形のように自己を喪失したと思えるこの娘には、信じがたい意志の働きであった。  砂丘を昇り、あと数メートルの距離まで近づいたとき、その足は停まった。  黒いコートの背が言葉を発したのである。 「何をしに来た?」  タエには答えられなかった。 「何が出るかわからん砂漠だ。戻れ」  静かな、抗いを許さぬ響き。  タエは両眼を閉じた。俯いたまま、薄い、血の気のない唇が、怯えるように震えた。 「あたし……あなたの質問に……答えようと……思って……」  安ホテルで、Dは、娘を拉致した貴族の名を問うたのだった。  別の質問が放たれた。 「言いたいのか?」  タエは、驚いたような表情でDを見上げた。 「何故、話す気になった? 言いたくないことを無理やり口にすることはない」 「……」 「婆さんに何か吹き込まれたか?」  タエはまた、俯いた。しゃべりだすまでに数秒が必要であった。 「……あなたの気持ちが離れたら……誰も無事に、この砂漠は渡れない……って……それで……」 「バーナバスの町には両親がいるのか?」  また、数秒の沈黙。 「二人とも亡くなったそうです。兄が結婚して家を継いでいるらしいけど」 「なら、そこへ行くまで、不必要な苦労を背負い込むことはない。連れては行かんが、ついて来るのは勝手だ」  タエは不思議な眼差しでDを見た。黒い背が、断ち切るような孤独を示していた。二度とこの場で、この若者が彼女のために口を開くことはあるまいと思われた。  タエは数歩後退った。  その場でふり向くのが怖かった。  背を向ける寸前、彼女はようよう言った。 「私は何も覚えていません。ただ……」  ただ…… 「……暗闇の中で、いつも、いつも……二つの赤い眼だけが宝石みたいに燃えて、あたしを見つめていました……」  動かぬ背に、娘は背を向けた。  砂に残された足跡が砂丘の傾斜に隠れて少し経ってから、Dひとりしかいない空間で、明らかに別の、嗄れた声がした。 「ほっほっほ……やはり、奴が一枚噛んでおるようだな……してみると、あの娘、どうあがいても不幸にしかならんわ。なあ、何をされたと思う?」  答えはない。Dは前方——灰色の光に覆われたうそ寒い砂の世界に眼をやったきりだ。  声は愉しげに笑った。 「今はおとなしくしておるが、ただ下女として侍らせるために人間の女をさらうほど、あ奴は酔狂ではないぞ。あの娘——いつか本性をさらす。敵は外部にあらず、むしろ——」 「何もなかった娘もいるぞ」  ようやくDが応じた。 「万人にひとりは、な」  声は容赦なく切り返した。 「だが、それ以外の娘はみな——あ奴に連れ去られた|娘《こ》とは限らず——この世界でどのような末路を辿ったか、考えてみるがいい」  もし、この質問を受けるのが、D以外の人間であったなら、頭に浮かぶ答えを必死になって打ち消そうと青ざめるか、戦慄のあまり、その場に立ちすくむだけだろう。  隠されっ子の悲劇とは、むしろ、発見され、人間世界へ連れ戻されてからはじまるとされる。  両親と会ったその日から、突如牙を剥いて、喉笛を噛み裂く娘たち。  しばらくは何事もなく暮らし、数カ月、数年後、何の前触れもなく発狂する少年たち。  十数年前の記録では、そんな子供たちが再び親元を離れて深山の奥に住居を設け、そこでも狂った血に駆られてか無惨な殺し合いの果てに、全員が死亡したという事実がある。  隠されっ子の悲劇とは、子供たちが消失したときにはじまり、終わっているともいえる。  だから—— 「どうした。あの娘らが親元に帰ったからといって、何ひとついいことはなかろう。最初は親も泣いて喜ぶ。隣近所に隠しても、別の土地に移しても、一緒に暮らそうとするだろう。だが、そのうちに、娘の眼が一向にかがやいていないことに気づくのだ。無理もない。向こう側の闇を覗いてしまった瞳には、この世界など虚像としか映らん。地獄の光景以上に、子供たちの感情を動かすものがあるか? あるまいよ、永劫に。そして、悲劇の第一幕じゃ。親たちは、会えたら死んでもいいと念じていた子供の顔から眼をそむけるようになる。子供の部屋に鍵をかける。そして、二人揃って馬車の用意をし、ある日突然、家には子供だけが残される」  声は言葉を切った。  Dは左手を握りしめていた。  骨のきしむ音が聞こえてきそうなほどに、力がこもっていた。  その中から、苦しげな声が—— 「……だが、残された子供は、まだ幸せかもしれんぞ。もっと……徹底した親もおる。……全財産を捨ててまで探し出した子のために……ある日、白木を削って、その先を尖らせはじめる親がの……」  Dの指の間から、ゆっくりと赤いものが滲み出しはじめた。 「うおお……どちらが……子供と親と……どちらが辛いのか……誰にも……わからん……うう……ただひとつ……あの娘さえ……戻らねば……誰も苦しみは……せん……の……だ……」  そのとき——Dは静かにきびすを返した。  タエの足跡を追うように砂丘を下る。  サイボーグ馬にまたがり、馬車とクレイの方をふり向いた。 「竜巻が近づいている。出掛けるぞ」  その言葉を反芻する間だけを置いて、毛布が持ち上がり、馬車のドアが開いた。  どちらもとうに眼を覚ましていたのだ。やはりただものではない。 「なんでえ、またか」  とクレイ。 「本当かい?」  とバイパー婆さんが念を押した。 「いくら何でも、そうたびたび。……ゆうべのとはまた別かい?」 「同じだ」  Dはあっさり言った。 「するてえと何かい」  クレイが好色そうな顔を歪めて揶揄した。 「竜巻どのは、おれたちを探してるんだ、とでも言いたいのかよ?」  Dは構わず、東の方へ歩を進めた。 「こん畜生」  憎悪の眼で、その後ろ姿を追いつつ、クレイも馬のもとへ急ぐ。婆さんも同じだった。  馬車が走り出したとき、クレイは奇妙なことをした。  四方を見回し、片手を口にあてて大声を張り上げたのである。 「兄貴、先に行くぜ。後から追っかけてきな!」  声の届きそうなところに見えぬビンゴの姿が、弟には見えるのだろうか。  それだけで、不安げな様子もなく、彼は馬にひと鞭当てた。  すでに二、三十メートルも離れた馬車へと疾走しながら、後方をふり返る。 「ほう、こいつぁ凄えや」  呆れたような言葉が洩れた。  距離からすれば数キロであろう。  細長い、よじれた針金のような線が地上と天空をつないでいる。  両端がおぼろにかすみ、天と地に溶けこんでいるように見えるのが不気味だった。  クレイの視界の中で、それはまぎれもなく太さを増しつつあった。  全速力でクレイは馬車と並んだ。  バイパー婆さんも必死の形相で手綱を握っている。竜巻の正体に気づいたのだ。  ドアが開いて、タエの顔が覗いた。 「出るんじゃねえ!」  クレイの叱咤に、むしろ婆さんの方が表情を硬くした。タエの無表情は変わらない。  クレイはDの右横に出た。  後ろから攻撃してみたい、という感情が束の間、脳裡に湧き、すぐに消えた。 「おい、何だ、あの竜巻は? 追いかけてくるぞ。さっき、おれたちを探してると言ったが、ありゃ——」 「変わった砂漠だな」  珍しく、Dが応じた。 「夜中じゅう、旅人を追っかける竜巻なんざ聞いたこともねえぜ。だがよ、一回はまいた[#「まいた」に傍点]んだ。今度もやれるよな?」  答えず、Dは後方に目を走らせた。  つられてクレイもふり向き、思わず唸った。  竜巻の太さは一メートルにも達していた。距離が縮まったのだ。一キロどころか、五百メートルもあるまい。  何か叫んで、クレイが馬の横腹を蹴った。一気にDを抜いたその後ろ姿へ、 「——馬車が巻き込まれるぞ」  冷たい機械のような声が言った。  たくましい背に電流が走ったように、クレイは身を震わせた。 「何とかしておくれよ、D!」  婆さんの声が追ってきた。  全員の頬を砂粒が叩いた。 「|危《やば》いぜ、こりゃあ」  つぶやいてクレイが手綱を引き絞った。Dをやりすごし、馬車と並んだ。 「婆さん——女を移しな」  と叫ぶ。眼がぎらついていた。 「冗談お言いでないよ! だれが強姦魔なんかに——」 「馬車よりこっちが速いぜ。逃げられるかもしれねえ」 「よしとくれ。あんたに渡すくらいなら、竜巻にくれてやるさ」 「へ、勝手にしやがれ!」  クレイの身体が躍った。  巨体は羽毛と化して、老婆の隣に降りた。強引にドアへ近づく。 「およし。よさないと——」  凄まじい風が婆さんの叫びをちぎり捨てた。  声ばかりか、身体までも——  砂塵を吸い上げ、猛々しくのたうつ黒い柱に、その端が触れた刹那、馬車は三人の乗員もろとも天空高く巻き上げられていた。    3  闇から意識が遠のき、現実へ戻る確信がタエを襲った。  横になっている。  身体の下は柔らかい。砂地だろう。熱かった。砂が灼けている。  タエはゆっくりと四肢を動かした。ひどい痛みはない。あちこちの鈍痛は、竜巻に巻き上げられたとき、車内でぶつけたものだろう。両腕で上体を支えながら、四方に眼をやった。  違和感が背筋を貫いた。  果てしない砂の連なりは失せていた。  眼の前にそびえるのは、どう見ても、小高い岩山であった。高さは四、五十メートル。  そう言えば、四方に大小の岩が転がっている。  砂漠に岩山があっても不思議ではないと考え直し、タエは身を起こした。  汗が首すじを伝わった。時間はよくわからない。 「無事だったようだな、姐ちゃん?」  背後の岩に呼ばれて、茫然とふり向いた眼に、青い鍔なし帽を被った巨体が映じた。  自分を見つめる眼に、毒々しい欲情を感じて、タエは数歩後退った。 「そう|情《つれ》なくすんなよ」  クレイは満面に笑みを浮かべて近づいてきた。顔中に汗の粒が光っている。 「おれもいま、眼を覚ましたところさ。えれえところへ来たもんだ。事によったら、生き残りはおれとおめえだけかもしれんぜ。だったら、仲良くしといた方が、お互いのためってもんさ、な?」 「近寄らないで」 「ほう。思ったよりはっきり口がきけるじゃねえか。あの吸血鬼ハンターとの話は、よく聴き取れなかったが。なあ、おれにも色っぽい声をきかせてくれよ」  言い終わらないうちに、クレイの巨体が細っこい身体を押し包んだ。  ほとんど抵抗する間もなく、タエは砂地に押さえつけられていた。 「やめて」  石のように固い指が、ブラウスの上から乳房に食いこみ、タエは悲鳴をあげた。  押し退けようとする手首がまとめて握られ、頭上へねじ伏せられた。  クレイの唇が迫ってきた。夢中で顔をそむける。  唇が頬に触れた。  不意に、娘の全身から力が抜け、クレイは眉をひそめた。  構わず唇を求めた。蝋人形の無反応。 「なんだよ、おめえ——諦めちまったのか? それじゃあ、つまらねえんだ。うんとこさ、泣き叫んでくれや」  脅しも含めて口にしたつもりが、タエは表情ひとつ変えなかった。男のその気を奪うテクニックでもない。 「おい」  業を煮やして、クレイは娘の肩をゆすった。顎に手をかけてねじ曲げる。  眼と眼が合った瞬間、彼は呻き声を洩らしていた。  タエの瞳を占めたものは、人間が決して見てはならないものであった。  哀しみ、憎悪、苦悩、恐怖——そのすべてを含み、なおかつ、遠く及ばぬ冷たさで覆い尽くしたもの。 「これが、おめえの年月か……」  クレイは茫然とつぶやいた。 「想い出したわ……少し……」  十八歳の娘は、熟練の戦闘士も凍りつくような声で言った。 「あそこで何をされたか……少し。……同じなのね……みんな……人間も、あいつらも……」 「おめえ……」  クレイのつぶやきを、鋭い音が弾きとばした。  獣のように叫んで、彼は身をのけぞらせ、前方へ跳躍した。  その後を、風の唸りが追う。  凄まじい皮鞭の打撃であった。 「覚悟おし。その手と面の皮をむしり取ってやるよ!」  クレイが現れた岩陰から二、三メートル右側に立つ巨石のそばで、婆さんが絶叫した。  鞭が唸った。  老婆が操るとは到底思えぬ、骨までひしぐ衝撃がクレイを捉えていた。  両手で眼をカバーしたまま、 「くそ婆ぁ!」  悪罵をひとつ。クレイはもう一度、後方へ跳んだ。  美しい音が空中で鳴った。  巨体に追いすがる鞭は、次の瞬間、中ほどから煙のように消滅していた。 「——!?」  婆さんが緊張に身を硬くする。 「くたばれ、婆ぁ」  クレイの右手が竪琴の上を這った。  その眼の前に、突如、七色の色彩が広がった。  クレイが力をふるったと見た刹那、あっさりと鞭を捨て、腰の壷から掴み出しざま、婆さんが放った品——砂であった。  だが、その異常な色彩といい、使い手といい、ただの眼つぶしであるはずがない。  見よ。老婆の足もとからクレイの靴先にかけて散った砂の描いたものは、明らかに人間の——クレイ自身の似姿であった。  老婆の右手が閃く。  何処に隠し持っていたのか、短いナイフが美しい地面に突き刺さった瞬間、クレイは声もなく片手を右の耳にあてた。  手のひらと頬の間から、ぬらりと赤いものが洩れた。 「今度は何処を削って欲しい? 眼か鼻か?」  大の男どころか火龍も凍りつきそうな台詞を浴びて、クレイはにっと笑った。  愉しくて仕方がない、という風に。 「“人探しのバイパー”か——伊達な綽名じゃなかったな。こいつぁ面白くなってきたぜ。こうこなくちゃあな」 「あたしもそう思ってたところさ」  婆さんが舌舐めずりをした。  血を見ずには——いや、生命のやりとりをなくしては収まりそうにない危険な状況が、一挙に|頂点《レッド・ゾーン》へと駆け昇っていった。そのとき—— 「そこまでにしておけ」  黒い闇の声が、二人を凍結させた。  四つの眼が勢いよく跳ね上がった岩山の中腹で、黒いロング・コートの裾がかすかな風になびいていた。  D……とつぶやいたのは、婆さんであったか、クレイだったろうか。 「砂漠の謎が解けるまで、仲間割れは中止だ。それより、あの娘が何処かへ消えたぞ」  はじめて、クレイと婆さんは、タエがいなくなっているのに気がついた。  婆さんの傲慢な顔に、哀しいほどの動揺が湧き上がっていった。  タエは岩陰から出て唇を拭った。  昏迷と絶望が腹腔から全身に広がっていく。これからどうしたらいいのか、どうすればいいのかもわからなかった。  歩き出した。  坐って泣きたくはなかった。どうして泣いてはいけないのかは、よくわからなかった。何処へ行こうとしているのかもわからない。誰もいないところへ行きたかった。  無数の幻が揺曳する意識の中に、鮮烈な像が浮かんでは消えた。  闇のただ中に光る真紅の|眼《まなこ》。  近づいてくる。  何処へ?  あたしは何を?  眼がじっと覗きこんで……  悲鳴をふり絞ろうと痙攣した喉が、かろうじて動きを止めた。  紅いかがやきの向こうから、白い|貌《かお》が茫洋と浮き上がってきた。  途方もなく美しく、雄々しく、それでいて哀しい顔であった。  澄んだ水のような感情が娘の胸を充たした。  この顔に比べれば——この顔を、この眼差しをつくった運命に比べれば、あたしの苦しみなど何でもない。  赤い光点は消えていた。  タエは立ち止まった自分に気がついた。  戻ろう、と思った。  何が待っているか知れないが、とにかく、前へ向かってみよう。  タエはきびすを返した。  背後で気配が動いた。  ふり向いた唇が悲鳴を放つまで、二秒ほどかかった。  真っ先に駆けつけたのはクレイだった。  岩陰を曲がった瞬間、走り寄るタエが見えた。  胸の中へ飛び込んできた娘を抱き止め、彼は前方の人影を注視した。  ぼろぼろのシャツとズボンを身につけた男だった。  濃い薮のような髪と髯に覆われた顔は貧相だが、骨格はそれなりにたくましい。  茫然と立ちすくんでいたのは数秒のことで、男はその場に膝をついてしまった。 「何だい、ありゃ?」  クレイの背後で婆さんの声がした。 「わからねえ。格好からすると、砂漠で迷った旅人のようだが、こんな岩山の中で、どうやって生きてこれたんだか。危ねえな」  婆さんは、タエの腕を掴んで引き寄せ、 「あたしたちゃ、安全地帯にいさせてもらうよ。あんた、男なら、この場をまとめておくれ」  さっさと後退した。 「おめえ——何者だ?」  クレイが竪琴の弦に指をかけたまま訊いた。全身から殺気が立ち昇っている。平凡な人間ならそれを浴びただけで卒倒しかねない。その辺の戦闘士やハンターとは三桁ほど格が違う。  気迫に打たれたか、男は頭をふりふり、両手を上げた。 「あんた方……どうやって、ここへ来た?」  気管に砂が詰まっているような声であった。  異様さが、クレイに返事をさせた。 「——あの忌々しい竜巻の野郎に乗って、空の旅よ」  途端に男の両肩ががくりと落ちるのを、クレイは驚きとともに見た。  落ちた手は、顔を覆っていた。 「あんたたちも……か? ……やっぱり……おれたちは、一生、ここを出られないんだ……」 「何だあ?」  クレイは大声を張り上げた。 「どういう意味だい、そりゃあ? おめえ、一体、何者だ?」  相手めがけて一歩進みかけたとき、クレイの眼は、山裾を回って近づいてくる数個の騎影に吸いついた。  それに気づいたか、うずくまっていた男が不意に跳ね起き、恐怖の叫びをあげて、クレイのもとへ駆け寄ってきた。  ぶつかる寸前、クレイは軽く右へよけ、足をとばした。  勢いよくつんのめり、男は砂埃を高々と舞い上げた。  すぐに跳ね起きた。  すがりつこうとするのを、クレイは軽く後退してかわした。 「助けてくれ」  と男は呻いた。 「おれは奴らのとこから逃げ出してきたんだ。昨日までは仲間だった。だが、逃げても無駄だった。誰もこの砂漠からは出られっこねえんだ」  凄惨な絶望の吹きつける顔を、クレイはそれに勝る鬼みたいな表情で睨みつけた。 「ふざけるな、腰抜け。あいつらに引き渡されたくなかったら、何でも素直に吐くと約束しろ。そうすりゃ、追っ払ってくれる。さもねえと、この場で殺せと奴らにけしかけるぜ」 「わかった」  男は、一も二もなくうなずいた。顔つきからして、脆弱な精神の主とも見えぬのに、異常な怖けぶりであった。 「わかりゃいいのさ。なら、後ろで待ってな。おっと、もうひとつ——そこの娘にも手え出さねえと約束しろ」 「何でもするさ」 「よかろう。——さ、安心して行きな」  走り去る男の足音を聞きながら、クレイは近づいてくる砂埃を待ち受けた。  男は仲間と言ったが、何かの間違いだろう。新品そのもののサイボーグ馬にまたがった男たちは、全員、洗いたてのような糊のきいたシャツに身を固めていた。  四人いる。 「よお」  と、左手を挙げて挨拶するクレイを見つめる眼差しは石のようであった。  戦闘士は笑みを崩さず、 「竜巻にさらわれちまってよお。自分の居場所がわからなくて困ってたんだ。ありがたい。地獄で仏だぜ。ここはどの辺だい?」 「あの男を連れにきた」  先頭の、リーダーらしい恰幅のいい中年男が言った。声まで石だ。人間というより生物の持つあらゆる感情を喪失していた。石が出した方がまだ納得できるだろう。 「おまえも一緒に来い」  クレイは白い歯を剥き出して笑った。 「そら、いいけどよ。——おれは育ちがいいもんで気が弱くてよ。ひとりじゃ何処も行けねえんだ。あいつは帰りたくねえっていうし、こりゃ、お互い満足する結果は出そうにねえぜ」  男たちは顔を見合わせようともしなかった。 「そうか。では——」  中年男の手が腰の火薬銃に伸びるのを見届け、クレイは右手を下からふり上げた。  袖口に忍ばせておいた幅広の蛮刀が、白い光と化して男の喉を貫く。  男の手は拳銃にかかった。  銃口が胸を向くのをクレイは見た。  火を噴いた。  遊底が後退し、針状の空薬莢が弾けとぶ。  着弾の瞬間に爆発して人間の頭くらいは軽く吹き飛ばす炸裂弾の衝撃に耐えながら、クレイは微笑した。シャツの裏地は石より固い装甲樹の皮であった。  右手が流れ、音が生まれた。  先頭の男は灰色の彫刻と化し、次の瞬間、同じ運命を辿った馬もろとも大地にわだかまった。  それ以上の攻撃はなかった。  背後の三人も塵と化していたからである。  ひと組だけやや後方にいた人馬が、もとの形を保っているのは、音の可聴範囲の境界線上にいるせいだろう。 「死ななくても、埃にはなるらしいな」  クレイは右手を上げて馬の足を薙ぎ払った。崩れ去った新たな砂山の方を見ようともせず、クレイは顔を上げた。  何処に隠れていたのか、五十メートルほど前方を、一頭の馬が人影を乗せて走り去っていくところだった。 「野郎」  自分の不注意をののしるように呻いて、彼は竪琴を右手に構え、端の隆起を走り去る人馬に向けた。  あらゆる物質の分子構造を破壊する超音波発生装置は、その非情さを償うように、華麗な旋律をも弦のゆらめきとともに生むのだった。  だが、クレイの指に次の殺戮を行う余裕はなかった。  生き残りの男は、忽然と前方の路上に立つ影を見た。  馬は止まらなかった。  鉄蹄に踏み倒されたと見えた刹那、影は跳躍していた。  ロング・コートを翻してDが着地してもまだ、馬と男は走りつづけていた。  Dの背で収めた長剣が澄んだ音をたてたとき、ようやく、男の首は胴体から離れて道の上に転がった。 「最後はうまく締めやがったな」  自分の成果を見ようともせず歩み寄るDに、クレイが皮肉たっぷりに言った。 「女がいなくなったと知らせてから、何処へ行ってやがった? おれの技をうかがってたんじゃあるめえな? いいや、おめえがそんなセコい真似をするわきゃねえ。辺りを調べに行ったんだな。冷てえ野郎だ。おれが娘を見つけたらどうするか、考えなかったのかよ? 奴らの始末もおれにまかせやがって。おれが殺られたら、婆ぁも娘も一巻の終わりだったんだぜ」 「おまえは殺られなかった」  Dはひと言言った。  クレイが返事に詰まり、それで終わりだった。  近づいてくる黒い闇の美貌を、怯えた三対の眼が迎えた。 [#改ページ] 第三章 生きている砂漠    1  男の名はランスといった。  北の辺境で植物の品種改良に携わっている農民グループのひとりである。  水のない寒冷地でも実をつける新種が完成し、五年前、この砂漠が実験地に選ばれた。  五台のトレーラーに十万本近い苗を積んで出動した農民たちを、砂嵐と野盗の群れが襲った。  抵抗するものもしないものも皆殺しにされ、ランスも一発食うところを、何故か野盗たちは、こめかみと口の中に突っ込んだ銃を抜いて、彼らのアジトへ連行した。  ランスが従ったのは、戦闘の最中に、いくらこちら側の刀槍や拳銃弾が命中しても、野盗たちがびくともしないのを目撃したためである。生命も惜しかった。  だが、野盗どもの巣窟へ辿り着いてすぐ、ランスは自分が途方もない世界へ引きずり込まれたことを知った。 「奴ら、ひとりひとり年齢を告げたのさ。リーダーは今年二百歳になると|吐《ぬ》かしやがった。他の野郎どもも、それに合わせて、おれは百歳だの、一五十歳だの、好き勝手をほざきやがる。おれは嘲笑したよ。それくらいの意地は残ってたからな。だが、次に見せられた物で、完全に魂まで屈服しちまった」 「何だい、それは?」  婆さんが勢い込んで訊いた。 「奴らの腹の中さ。着ていたシャツをひとりずつ脱ぎやがった。すると……」  ランスは両手で顔を押さえた。岩山の中ほどに見つけた洞窟の中である。空気は蒸すが、外よりはましだ。  幸い婆さんの馬車も無事で見つかり、食料と武器には当分、不自由しないで済む。 「何があったんだい?」  婆さんが青ざめながら訊いた。 「ミイラだったのさ」  次々に前を開く新品のシャツの下には、吐き気を催す干からびた肉と骨の残骸がこびりついていたのである。 「そのくせ、首から上は、さっきも見た通り真っ当なんだ。その顔がこちらを向いてニヤリとする。もう何もかもおしまいだと、おれは思ったぜ」  ランスが言い渡されたのは、奇妙で残酷な命令であった。  すなわち、彼ら生ける死人どもと行動をともにすることである。  彼らの行動とは、言うまでもなく、砂漠へやってきた旅人の虐殺を意味する。  ランスは拒否できなかった。 「この五年間で、四つのグループを襲った。殺しもしたよ。見ず知らずの男も女も。そうしなきゃ、おれが殺られるんだ。あんたと同い歳くらいの娘もいたぜ、お嬢さん。気が狂ってたとは言わないよ。殺すたびに吐いてたからな。だがな、このままでいいと思ってたわけでもないんだ。あんた方が連れて来られたと聞いたとき、今度こそ、どんな目に遭わされても逃げようと思った」 「連れて来られたと言ったな?」  クレイが洞窟の入口へ眼をやりながら訊いた。  岩壁にDが寄りかかっている。  一同の話がきこえるかきこえないかの距離だ。ランスの追っ手を一刀のもとに切り|斃《たお》したくらいだから、その話に大いに興味があるのかと思ったら、何ひとつ質問せず、その場から動かない。  尋常の判断を遥かに超えた男であった。 「あの竜巻を操ってるのは、一体何処の何者だ? おめえは五年もこの土地で生きてるんだ。そのくらいはわかるだろう。あの死人どもも、そいつに使われてるのか?」 「間違いない」  ランスは弱々しくうなずいた。 「だが、その親玉が何なのかはおれには見当もつかない。五年間、それくらいは探り出したいものだと注意してきたが、人間かどうかもわからなかった。ただ、おれは人間じゃないと思う」  理由は、ランスを生かしておくための方法だった。  食事は一日に一度、得体の知れない果実や木の実が無造作に|塒《ねぐら》の前に山積みにされていたが、運搬人の姿を見ようとしても、どうにもならなかった。物資の移動は、ランスが眠っているときに行われ、寝ずの番を実行していると、何ひとつ届けられなかったのである。  数週間を経るうちに、ランスは奇妙な感じに捉われた。  いつ、何処にいても、監視の眼が全身に注がれている風なのである。  周囲に何ひとつ存在しない荒野の真ん中に出ても、それはつきまとった。  無論、逃げることはできなかった。  死人たちは、旅人を襲うとき以外、洞窟の中に横たわっていたが、脱出を謀るランスの前には、常に砂嵐や奇怪なものが立ち塞がったのである。 「なんでえ、そいつは?」  クレイの問いに、ランスは首をふった。 「わからない。いや、聞いたことはあるが、見るのは初めてなんだ。果てもなくつづく水の広がりさ。あれが海って奴だろう」  クレイと婆さんは顔を見合わせた。  交通機関の整備は、貴族たちの輸送手段がいまだに作動中の「都」近辺を離れるに従って低下し、辺境において、数カ所の例外を除くほとんどの地方が原始的な交通手段に依存しなくてはならない。  海を見ずに生を終えるものはもちろん、死ぬまで自分の村を離れられないものたちも多いのだ。  ランスの言葉は、クレイと婆さんを仰天させるのに十分であった。 「砂漠の中に海ねえ」  と婆さんが唸った。 「何かの妖術か、貴族の仕掛けかね。どう思う?」  質問はDに向けたものである。  一同から三メートルばかり離れた窪みに身を横たえていたタエの眼が、はじめて吸血鬼ハンターの方へ動いた。 「竜巻は操られたものだ」  Dは前方の風景に眼を向けたまま言った。 「操ったものは、おれたちをみな、ここへ招いた。理由はひとつ。——彼と同じことをさせるためだろう」 「追い剥ぎをかよ!?」  クレイが遠慮会釈のない声を張り上げた。 「だが、もう、この砂漠を突っ切ろうなんて、酔狂な奴はいねえぜ。この婆ぁやおれと兄貴を除いてはな。ところが、おれたちは死人どもに襲われちゃいねえ。こりゃ、どういうわけだ?」 「砂漠には、おれたちを殺す以外の必要が生じたのだ」  Dはあっさりと言った。 「その男は監視されていたと言った。今度はおれたちがそうされる番だ」 「ちょっと待っとくれ」  婆さんが口をはさんだ。 「あんた、いま、砂漠には、と言ったけれど、何かい? あたしたちを襲ったものはみんな、この砂漠の指令で動いてるというのかい?」 「驚くほどのことはあるまい。動く森の話はした。北西辺境区の生ける山のことは知っているだろう」 「ああ」  地平線を移動する総重量五百億トンの岩山の姿を考え、婆さんは身震いした。 「——でも、あれは動くしか能のない単純な鉱物型の生き物だよ。もっとも、十年に一度動き出すと、そのたびに一万人は押しつぶされるけれど」 「複雑な生き物がいてもおかしくはあるまい」  Dは反論する様子もなく言った。 「鉱物型の生物は、その新陳代謝が重量によって大幅に制限されるため、あれ以上の発達は望めない。だが、砂漠は別かもしれん」 「砂漠ったって、あたしにゃ、あんまり漠然としすぎてるよ。つまり——」 「ある種のシステム化された神経と思考回路を持った生命形態ということだ。ただ、その二つがどんなものか、おれにもわからん」 「じゃあ、じゃあさ。あの竜巻はつまり、必要なものをここへ呼び寄せるための“手”かい? 彼を見張ってたのが“眼”で——鼻だの口だのは、何処にあるんだい? そうか、最初に出くわした球だの蝶だのがそれかい?」  Dの返事はない。 「おれにも別の意見があるぜ」  片膝をついて婆さんの話を聴いていたクレイが、土を払いながら立ち上がった。 「こいつを連れて来た理由は、まあ、いいとしよう。だが、他の旅人を襲って金品を略奪したのは何故だ? 決まってらあな。黒幕さんに欲があるからさ。おれの知る限り、そんなものがあるのは人間さまだけだぜ」 「そう言やそうだね」  婆さんも、もっともだ、という表情になった。  否定したのは、ランス自身だった。 「この先——南へ回ったところに、大きな窪地がある。盗んだ品はみな、そん中で腐るか錆を吹いているよ」  婆さんとクレイが顔を見合わせた。 「そいつが捨てたのか?」 「捨てる現場を見てないから、何とも言えん。だが、どんな品でも一週間も経つと、ゴミ捨て場行きだった」 「その間は、どう扱われてるんだい?」  婆さんの問いに、ランスは首をふった。 「とにかく、この岩山を脱け出すのが先決だぜ」  クレイが一同を見回して言った。 「おい、婆ぁ。おめえの馬車に乗って出掛けるぞ」 「無駄だ」  ランスが疲れきった声で言った。 「おれだって、何百回も試してみた。だが、あるときは砂嵐、別のときは海の幻影——そうだ、歩き出しても何も起こらねえんで、こりゃ、しめた、と思ったら、眼の前にこの岩山がそびえていたこともあった」 「今度はうまくいくさ」  クレイが吐き捨てた。この男にとって、ランスなど疫病神としか映らないのだろう。 「断っとくがな、そうでもしなきゃ、おめえも一緒にここから出られねえんだぜ。あのハンサムの話じゃ、おれたちは、おめえの代わりにここへ連れて来られたらしいからな。この砂漠の支配者さまにとって、おめえは用無しってわけだ」  ランスの表情に無残な恐怖が走った。 「さっきの奴らは、おめえを連れ戻しにじゃなく、殺しに来たんだろう? 何だったら、ここへ置き去りにして、あいつらに始末をまかせてもいいんだぜ」  肩を落としたランスを気持ちよさそうに眺めて、クレイはDの方を向いた。 「おめえも来るだろうな?」 「無駄だ」  冷え冷えとした返事が、ランスのそれと同じだと知って、クレイの眼が光った。凶悪な光である。 「何が無駄なんだ?」 「馬車は無事か、婆さん?」  Dが訊いた。 「ああ、何とか動くよ。馬も大丈夫だ。けど、二回目は危ないね」 「今度、竜巻に巻き上げられでもしたら、馬車は完全に動かなくなる。元も子もあるまい」 「じゃあ、どうするってんだ!?」  クレイがいきなり地面を蹴った。小石が数個、洞窟の奥の闇へと消えた。 「手をこまねいてるきりか? 一生、こいつみたいに、果物や木の実を食って暮らす気かよ?」 「好きにするがいい」  Dは岩肌から身を離した。  おれにはおれのやり方があるということだろう。黙然と洞窟の出入口に近づいた。 「何か来るのかい?」  婆さんの眼が細まった。 「馬だ。十人ほど乗ってる。こいつの仲間だろう」 「口を塞ぎに来たね」  婆さんが右手を壷にかけた。 「なに、十人程度、片手で始末してくれるよ」  声はそれまでDのいた空間を通り抜けた。 「D」  タエが小さくつぶやいた。    2  Dは陽ざしの下に出た。  と言っても、洞窟の中より明るいだけで、天空を覆う雲は相変わらずである。  洞窟の出入口で、彼は空を仰いだ。  |昏《くら》い。  Dの美貌がさらに光を増すような昏さだった。  そのまま動かない。  鉛色の空の向こうに何を見ているのか。  緑にかがやく草原も、光あふれる南の国も、この若者は、空気と色彩と大地の集合体としか理解しないのであろう。  では、生は?  死は?  運命は?  限りなく昏く冷たく、しかし澄みきった瞳だけが、岩山の陰を巡って現れた砂煙を映した。  十騎の騎馬である。  ランスよりずっと清潔な生ける死者たちだ。先行の仲間が戻らないので迎えに来たのだろう。  クレイとDが斃した四人の顔は見えなかった。偽りの生命を与える砂漠も、二度目は不可能とみえる。  死者たちは、Dの前方で半月を構成した。  口髭を生やした男が半歩、前へ出た。どこからどこまで人間そのものだ。 「おまえたちは残す」  機械のような声で言った。  腰には火薬銃を下げている。小さな|輪胴《シリンダー》から迸る六発の銃弾は、細木なら貫通するはずだ。 「その男を引き渡してもらえば、おまえたちのここでの生活は保証される。そうしたがよかろう」  言い捨てて、男は待った。  返事はない。相手はDであった。 「やむを得んか」  口髭の男は右手を上げた。  歯車の噛み合うような音が幾つも鳴る。  馬上の男たちが全員、火薬銃の|撃鉄《ハンマー》を起こしたのである。 「おまえは特に興味ある存在だ。できれば争いは避けたい」  男の頬を風が打った。  それと、笑いが。  Dではない。笑みは知らぬ若者だ。声は、自然に下げた彼の左手のあたりでした。  危険な沈黙が世界を占めた。  男の右手が拳銃の銃把に伸びる。  それが合図。  居並ぶ男たちも引き金を引いた。——引こうとした。その眼前に、黄色の砂塵が壁のように広がったのである。  轟音が鳴った。  小さな金属円筒内で燃焼したガスが、鉛の塊を一気に外部へ放出する音の連続。  砂塵のどこかで閃くオレンジの火花——その間を縫って銀光が走った。  砂塵の中で何が起こったか。  噴き上がる砂の幕は突如、地に落ちた。馬上の男たちもろともに。  Dのみが立っていた。  ことごとく頭頂を割られ、灰と化した男たちには眼もくれず、Dはただひとり地面へ落とされただけで無傷と見える口髭に近づいた。  ぐい、と鼻先に突きつけた刃には、血の痕どころか一点の曇りもない。 「|死人《しびと》は死人に戻る」  Dは静かに言った。 「この土地からの脱出孔は何処にある?」 「知らんな」  男は首をふった。蒼白であった。恐怖より痛みの生んだもののようであった。憎々しげに、 「おまえたちもおれと同じ運命になるがいい。この砂漠で、わけもわからん存在に飼い殺しにされ、死んだら生き返らされて……ははは……いい気味だ」  チン、と澄んだ音がした。Dが長剣を収めたのである。  同時に男の上体は左下方へずれた。  右腋の下から左腰にかけて断たれた身体は、分離する前に塵となって消えた。 「ほっほっほ……これで手詰まりか。あのランスという男が脱出路を知っているとも思えんしな」  Dの左手が笑った。そこから噴き出した風が砂の幕をつくったと、死人たちには想像もできなかったろう。 「おまえにわかるか?」 「なんとかな。だが、有り得ん方角を知るには栄養が足りんよ」  Dはきびすを返した。  洞窟の入口に、四人が立っていた。クレイの凶暴な顔にも驚きの色が隠せない。 「十人を……二秒とかからずに。……化物だな、おめえ」  呻くような声であった。 「ますます殺したくなってきたぜ。このおれの手でよ」 「それは、砂漠を脱けてからにしておくれ」  と婆さんが強い口調で言った。  ランスをふり返り、 「さ、あんたを狙ってる奴らは片づいたよ。安心して、もっといい話を憶い出さないかね? あたしゃ、こんな場所で強盗に仕立てあげられるのは真っ平だよ」  Dは帽子の鍔に手をあて、背後を見た。 「脱出は可能だ」 「何だって!?」  四人が愕然と眼を剥いた。 「——だが、ここを脱けても、砂漠にいる限り、追っ手はかかるだろう。出て行くのは決着をつけてからがいい」 「どうやってつけるのさ」 「待つことだ」  それだけ言って、Dは穴の奥へと入った。取りつくしまもない冷淡さである。  クレイと婆さんは顔を見合わせた。 「おれぁ、外を覗いてくるぜ」  クレイが宣言した。 「真っ昼間から、こんな穴ん中にこもってちゃあ、気が狂っちまう。おかしな奴が襲ってきたら、後はまかせたぜ」  婆さんが止める間もなく、青い帽子の姿は光の中に消えた。 「やれやれ、気の早い男だこと」  婆さんが独りごちた。 「ここはもう、冷静沈着な男に頼るしかないね。あんたは本当にあたしたちの守り神だよ」  その守り神は、岩の窪みの奥で影に包まれていた。 「あんた方……何者だい?」  ランスがくぐもった声で訊いた。それが癖なのか、しきりと顎をなでる。 「ただの旅人じゃないと思ってたが、まるで化物の集まりだ。何処へ何をしに行くんだ?」 「あんたと似たようなもんさ。安心おし。絶対、無事にここから脱出してやるよ」 「だといいが……おれの飲み食いしてた品だって、どこから来たのかわからないんだぜ。このままじゃ、日干しになっちまう」 「それを覚悟で逃げ出したんだろうが。大の男が情けないこと言うんじゃないよ。あたしたちと出くわさなかったら、あんた、歯を食いしばって頑張ってたんじゃないのかい?」  ランスは口をつぐんだ。 「腹が減ったんなら、あの馬車に食料があるさ。食わせてやるから一緒においで」  立ち上がった婆さんについて、ランスは出て行った。  タエとDだけが残った。  Dは岩陰で眼を閉じている。  二人の距離は四メートルほどあった。 「お婆さんが……」  俯いたまま、タエが小さく言った。Dに届かなくても不思議ではない声だ。 「私を置いていったわ。あなたなら、安心だと思ったのかしら……誰よりも怖い人なのに……」  返事はない。タエの声が聞こえたとしても、とりとめもないつぶやきとしか響くまい。 「帰れるなんて、思わなかった……一生、あの、貴族の城で暮らすのかと思っていたの」 「貴族の名を覚えているな」  闇が声を発したとき、タエの身は震えた。  うなずくまで、大分、時間がかかった。 「……ヴェネッシガー侯爵」 「それだけか?」 「え?」  小さく叫んで、タエはDの方を向いた。闇だけしか見えない。 「グラディニアの城は、特殊な用途がある。おまえが会った貴族は、そいつひとりか?」  タエは沈黙した。  数秒。  自分で耐えきれなくなったように、 「もうひとりいました……」  と言った。 「侯爵よりも、ずっと大きくて威厳のある……顔は見なかったけれど……」 「眼だけが赤かった。燃える宝石のように」 「その通りです」  タエはうなずいた。それが虚ろな表情に変わるまで、さして時間がかからなかった。  闇の中に彼女はいた。  密度さえ感じられる暗闇の向こうから、赤いものが二つ近づいてきた。  双眸であった。 「どんな眼をしていた?」  どんな男だった、と訊かずにDは言った。 「……真っ赤で、鋭い……こちらの身もこころも呑みこんでしまうような眼です……一度見つめられると……もう……何も考えられなくなって……。——そう言えば……」  タエは妙にゆったりとした口調で言った。 「そう言えば……どこか、あなたに……何故なのかしら? ……そうだわ……とっても、哀しそうな……」 「奴は君に何かしたか?」  不意にDが質問を変えた。  動揺がタエを襲った。 「……何も……何も、されないわ……ただ、出会っただけよ。どうして、そんなことを訊くの? あなたはハンターでしょう? 余計なこと、訊かないで」 「赤い眼の主は、君臨するものだ」  闇は微動だもせず、岩陰にわだかまっていた。 「貴族の威勢が落日に向かうこの世界にあっても、その黒い翼は多くの運命に不可思議な風を送る。君もそのひとりかもしれん。奴は——何をした?」 「やめて」  タエは顔を覆い、立ち上がった。 「何もされやしないわよ。何をされたって覚えてないわ——ひどいことを訊かないで!」  石をも凍らせるような口調であった。  光るものが頬を伝わった。  それを風に散らせて、タエは洞窟を走り抜けた。  数分後、バイパー婆さんが洞窟へ姿を見せた。 「D——いるかい?」 「ここだ」 「あんた……あの娘に何か言ったかね? 馬車へ駆けこんで来て、泣きっぱなしだよ」  婆さんは抑揚のない声で言った。 「気になるか?」 「少しはね。——なにせ、大事な商品だよ」 「あの娘と一緒に旅をして来たな。気がついたことはないか?」 「何のことよ?」  婆さんの身体を細い緊張の糸が縫った。 「身体の異常は? 精神状態の変調はどうだ?」 「それなりのことはあるさ」  婆さんは、もうリラックスした声で言った。 「だけどね、年頃の娘が貴族と長いこと暮らして、それから家まで長い長い旅をするんだ。異常のない方が異常さね。家族に渡すまで、おかしなことが起きないよう、あたしゃ、精一杯気を配ってるんだよ。おかしな言いがかりをつけないでおくれな。それより、早いとこ、この馬鹿げた土地を脱け出す手段を考えておくれ」 「あの娘は、故郷へ帰らねばならん」  闇からの声は言った。 「家族は健在らしいな」 「ああ。両親はあの娘がさらわれてすぐ亡くなっちまったが、兄夫婦が農家をやってるよ」 「ひとり[#「ひとり」に傍点]ならいいが、二人[#「二人」に傍点]で生きるのは辛いぞ」 「どういう意味さ?」  婆さんの顔に激しい狼狽の色が湧いた。  ノックの音を聴いて、タエは顔を上げた。押しあてていた両腕の肘が濡れている。  タエは素早く手の甲で眼尻をこすった。 「どうぞ」  寝室のドアを開けた相手は、バイパー婆さんを想像していた娘を少なからず驚かせた。  ランスである。頭を掻いて、 「ごめんよ。泣き声がしたもんだから……」 「いいの」 「元気ならいいんだ。気になってね。——じゃ」 「行かないで」  反射的にタエは叫んでいた。 「——!?」  思わず立ちどまるランスの眼に、ベッドに崩折れるタエの姿が映った。 「おい」 「いいの——放っといて」 「だけどよ」  ランスは渋った。 「女の子が泣いてるのに、黙って見ちゃいられないよ。そんなときは、独りより誰か話し相手が——」 「いいから、出て行って!」  断ち切るような語調の激しさに、ランスはやっと状況を理解した。 「——わかったよ。済まなかったな」  ゆっくりと向けた背へ、 「待って——」  タエのかすれ[#「かすれ」に傍点]声がかかった。鼻の詰まったような響きである。 「……ごめんなさい。でも、ひとりにしておいて。お願い」 「わかった。元気出しなよ」  こんな場合、月並みな台詞しか、ランスは知らなかった。 「はい」  できるだけ明るい声をタエは出した。  武骨な顔に似つかわしい笑みを浮かべ、ランスは立ち去った。  ドアが閉じると、タエの全身から力が抜けた。  手が自然に下腹を押さえる。切なげな吐息が洩れた。  ああ、と娘は、巨大なものへの呪詛を哀しげに声へ乗せた。  薄い肩が震えた。  嗚咽が唇を割る。  他にできることはなかった。  光る珠が幾つも膝上で砕けるのを、タエは見つめていた。珠が染みになっても眼は動かなかった。  危険な色をしていた。  立ち上がり、寝棚の下から、革製のバッグを引き出す。  白い手が吸いこまれ、細長い光を握って戻った。  もう一方の手が、その上端を引くと、短いナイフは刃と鞘とに分かれた。  鍛えぬかれた鋼に映る眼は、切迫した光を宿していた。  ゆっくりと刃先が上がった。その先に、タエの喉があった。  軽くめりこむ。  小刻みに動く刃の下から、赤いものが滲みはじめた。  震えが止まった。決心がついたのだ。  上がってきたのと同じ速度でナイフは戻りはじめた。  長い長いため息をタエはついた。  ナイフを鞘に収めたとき、前触れなしにドアが開いた。  バイパー婆さんである。  タエの顔よりも、手にしたものを先に見た。  凄まじい力でもぎ取った途端、その抵抗のなさに婆さんは拍子抜けしたかもしれない。 「おまえ——」 「大丈夫です。心配しなくとも」  タエは聴きとれないほどの声で言った。  その頬が激しい音をたてたのは、次の瞬間だった。  打撃と反対の方を向いた片頬も鳴った。  皺だらけの手が胸倉を掴んで揺すった。 「よくお聴き」  茫然と自分を見つめる娘の顔へ、婆さんは言葉をねじ込むように言った。 「おまえは、あたしの大事な商品なんだ。勝手に傷ものにされちゃ困るんだよ。あたしには、おまえをきれいな身体で家族へ送り返す義務がある。責任がある。これまで、ずうっとそれで通してきたんだ。あたしの名前にも、小っちゃな傷ひとつつけさせやしないよ。いいかい、今度、おかしな真似をしたら、家へ送り返す前にあたしが殺してやる。ようく覚えておいで」  婆さんの恫喝が終わるまで、タエは待っていた。 「殺して下さい」  ぽつりと言った。  その意味がわかるまで、婆さんは数秒を要した。 「何だって?」 「——私は最初から帰りたくなんかありませんでした。あなたの気に入らないことがあるんなら、この場で殺して下さい」  虚ろな声には、強靭な意志が秘められていた。 「おまえ——家へ帰りたくはないのかい?」  婆さんはぼんやりと言った。動揺は深くない。タエを見つめる眼差しは、むしろ、やさしくさえあった。  タエは無言だった。  胸もとが不意に楽になった。 「二度と馬鹿な真似はしないとお誓い」  婆さんは低く命じた。  白い顔は俯いたままである。長いこと、ふたりはその場に立ち尽くしていた。  婆さんが舌打ちした。 「強情だこと。おかしな真似をしないと、これも強情に肝に銘じておおき。たとえ、あんたが首を吊ろうと毒を飲もうと、あたしは生き返らせて、親元へ送り届けてみせる。バイパー婆さんの名前を、あんたみたいな小娘に汚させてたまるもんか。——あんた、貴族に何かされたのかい?」  タエの顔が跳ね上がった。 「おかしなこと、言わないで下さい!」 「なら、いいさ」  婆さんはうなずいた。 「どうやら、こう訊くのが一番効果があるようだね。ま、それだけ元気が出りゃ、そう簡単に死にたかならないだろ。この砂漠を渡るまで、嫌なことだけ憶い出すようにおし」 「他に、憶い出なんか——ありません」 「そうかい。なら、先のことだけ考えるんだ。憶い出なんかなくたって、人間、生きていけらあね」  タエの眼が老婆を射た。 「お婆さんも、そう[#「そう」に傍点]なの?」 「よしとくれ」  バイパー婆さんは派手に顔をしかめた。 「あたしにゃ、夢も希望もあるさ。さっさと銭をためて、呉服屋をやるんだよ」 「呉服屋さん?」  タエはあっけにとられた。 「ああ。こう見えても、あたしの服のセンスはなかなかのものでね。この商売をはじめる前は、『都』で子供服の仕立て屋をやってたのさ。結構、商売になったんだよ」 「呉服屋さん」  タエはもう一度つぶやいた。 「今まで一緒に旅して気がついたんだけど、あんた、子供が好きだね」  婆さんは静かな口調で言った。 「こうなったら言っちまうが、その寝床の上の荷物入れにゃ、裁縫の機械が入ってるんだ。何なら使ってもいいよ」 「いいんですか?」 「いつまでも情けない顔おしでないよ。今まで誰にも手え触れさせなかった大事な機械を貸してやろうってんだ。少しは元気を出してもらわにゃ困るよ。やけに嬉しそうだけど、機械は扱えんのかい?」 「故郷にいた頃、少し」 「なら、やってごらん。だけど、タダで使われるのはご免だ。部品だって傷むからね。心得があるんなら、子供服の一枚でも縫ってもらおうじゃないか」  婆さんは左手で奥の棚を指さした。 「生地はそこに入ってるよ。ただし、無駄にしたら、あんたの引き取り手に弁償してもらう。いいね」  返事を待たず、婆さんは背を向けた。  ドアの前まで行ってふり向いた。 「あの吸血鬼ハンター、冷たいことを言ったらしいけど、気にするんじゃないよ。いつも仏頂面してるが、ありゃ、他人を虐めるタイプじゃない。ただ、自分の生き方に忠実なために、辛いことも口にしちまうんだ。自分に厳しい人間てのもしんどいものさ。あの男は——それが桁はずれときてる。胸の皮剥いで覗けば、あたしもおまえも哀しくって死んじまうだろう」 「……」 「——それと、さっき出て行った新入り、あいつはここで何をしたの?」 「何も。励ましてくれただけですわ」 「ふん、美人は得だこと。でも、ひと言いっとかなきゃね。悪い虫にたかられちゃ困るわ」  婆さんは車の外へ出た。  すぐ外に、黒衣の影が立っていた。 「——聴いてたのかい?」  Dは答えず、旅人帽の鍔に手をあてて少し下げた。 「氷みたいな男だと思ってたけど、たとえ車の陰に隠れてもわざわざ陽の光の下へ出てくるなんて、粋なことするじゃないか。そんなにあの娘が気になるかい?」 「砂漠に異常が発生した」  Dは短く言った。  婆さんの顔つきが変わる。 「何だい、それは?」  短く訊いた。 「わからん。異常があることだけは確かだが、はっきりしない」 「ここを出た方がよかないかい?」  Dは答えなかった。婆さんもすぐ黙った。結論はさっき出ている。とりあえずは、待つしかなかった。  Dの眼がわずかに東方へ動いた。 「どうかしたかい?」  婆さんには何も見えなかった。 「裁縫機の音だ」 「やっと気晴らしを探し当てたのさ」  婆さんは苦笑した。 「後は、この砂漠を出たら、あんたにいなくなってもらうだけさ」 「おれに?」 「あたしの言いたいことに気がつかないほど朴念仁じゃないだろ。あの娘に限らず、どんな女にとっても、あんたは危険な男さ。そう言われたことはない? ——なら、みんなあんたの顔を見て、頭がイカレちまったのさ」  婆さんはDの顔を見つめて反応を待った。  陽光の下にいても、闇の何処かで生み出された水晶へ、天工が鑿をふるったように見える美しさであった。  奇怪な感覚が下半身から噴き上げ、婆さんは身震いした。  この若者に現界の賞讃など何ほどの意味もない。彼を誉め讃えられるのは、人外の死者のみだ。 「“安らぎは故郷の我が家にこそ”」  何事もなかったようにDは言った。 「辺境を旅するものの格言だが、本当にそうかな?」 「のんびりできるかどうかわからないが、ある[#「ある」に傍点]んなら、帰らにゃなるまいよ。——あんた、あの娘のことを言ってんのかい? 故郷へ連れて帰るな、と?」 「そのまま故郷に留まった“隠されっ子”がいたか?」 「さあてね」  婆さんはそっぽを向いた。 「連れ帰るまでは責任を持つ。けど、それからのことは、別の連中の問題さ。アフター・サービスの行き届いた職場じゃないんでね」 「一度、会ったことがある」  闇色の言葉が陽光に溶けた。  婆さんは茫然と美しい顔を見た。抑え難い好奇と興奮の色が二つの眼を染めていく。  この若者が過去に想いを馳せるなど、考えられないことだったのである。 「南西|区《セクター》の村だった。村中で追い出したらしい。八歳くらいの男の子が川のほとりで凍えかかっていた。おれが事情を聴いてその後すぐ死んだ」 「何かしでかしたのかね?」 「わからんのか?」 「わからないね」 「何もしなかった」 「そうかい。じゃ、どうして?」  婆さんは少しむき[#「むき」に傍点]になっているようだった。 「男の子は三カ月、貴族のところにいた。それだけだ。医者も異常は無しと請け合った。陽光の下も歩けた。両親と一緒に暮らした半年の間も、何ひとつおかしな兆候は見られなかった」 「………」 「だが、ある女が疑心暗鬼になり、村長と自警団長に、血を吸われたと訴え出たのだ。傷を見れば、ひと目でまがいものと判断できたが、二人の男は別の意見を採った」 「厄介払いかね」 「村中が男の子のところに押しかけるまで、一時間とかからなかったという。止めようとした父親は殺され、家には火が放たれた」 「可哀相に」  婆さんは素っ気なく肩をすくめた。それから首を傾げた。 「けど、死にかかっていた男の子に、よくそんな細かい話をする余裕があったもんだね」 「事情を話したのは、付き添っていた母親だ」 「最後は母親に看取られていったかい。……せめてもじゃないか」 「村長たちに密告した女は、母親だ」  白い光が二人を包んでいた。世界は限りなく平和だった。  婆さんはぎごちなく車の方へ寄った。 「さてと。何が起きるかわからないが、出発準備だけはしといた方が無難だね。異常ってのは、すぐにやって来そうかい?」 「わからん」  Dは影の外へ出た。婆さんが何気なく、 「ダンピールってのは、陽の光の下じゃかなり苦しいんだってね。あんたを殺すにゃ、昼間に限るわけだ。やっぱり、血は争え——」  言いかけて、婆さんは片手で口を押さえた。押さえたが、表情は眼に出た。  笑っているのだった。  邪悪な笑いだった。  気にした風もなく、Dは砂の海へと歩を進めていった。 「なあ、あんた」  左手の岩陰からランスが現れた。タエに追い出され、そこで陽光を避けていたらしい。  Dは歩みを止めず、ランスは小走りに近づいた。 「あんた——Dって名前じゃねえのか?」  と訊いた。 「——辺境にひとり、とんでもねえハンサムで腕の立つ吸血鬼ハンターがいるって、村の連中が話してたよ。あんたのこったろ? するとよ、あの娘や婆さんは、そっち関係かい? おれにゃあ、さっぱりわからねえんだ。片っぽはえらく暗いし、残りはつっけんどんだしよ。なあ、あの娘——ひょっとしたら、隠されっ子じゃねえのか?」 「だったらどうする?」  歩きながらDが訊いた。 「どうもこうもねえよ。あんたが慰めてやらなきゃ駄目じゃねえか。これまでさんざかひどい目に遭ってきた上、どこへ行ったって、身の上が知られりゃ白い眼で見られるんだ。せめて、着くまではやさしくしてやれよ」  Dは足を停めてランスを見つめた。 「何故、おれに言う?」  ランスは眼を逸らした。頬は薄紅に染まっている。Dに見つめられると、男でもこうなるのだ。咳払いして、 「そらあ、あんたしかいねえからよ。年頃の女の子ってな、ぜーったい、いい男に弱えんだ。保証するぜ。だったらよ、男三人の中で、あんたがピカ一だ。な、そばにいてやれよ。さっき、泣いているのを見ちまった。あんな風に哀しんじゃいけねえ娘だよ、ありゃ」  Dは無言で男を見つめていた。  すぐに、砂漠の方を向いた。茫々たる砂の海である。 「ここを動くな」  低く告げた。  ああ、とうなずくランスを残して、二十歩程進んだ。停止する。ゆっくりと左右を眺める顔には、緊張の|破片《かけら》もない。 「異常ありにして無し、だな」  左手のあたりから嗄れた声が洩れた。 「だが、何かが起こりつつあるのは間違いない。せいぜい用心せい」  その瞬間、暗黒が空を埋めた。Dのコートが翻ったのである。  ふり向いた眼は何も映さなかった。  砂のつらなりだけが、白い光の下に眠っている。  ランスはいなかった。  婆さんの車も。  岩山さえもない。 「ほう」  と、Dの左手が唸った。 「鮮やかなもんじゃ。心理攻撃にかかったぞ」 [#改ページ] 第四章 心理攻撃    1 「どの程度の心理強制度だ?」  Dはあわてた風もなく訊いた。 「訊かずともわかっておろう。そうさな、貴族定量で五千リゲル。並の都市なら、千分の一秒以内に全住民が発狂しておる」 「無茶をする砂漠だ」 「全くじゃ」  声は笑いを含んでいた。どちらも胆の太さが人間離れしている。  風の音が絶えた。  Dは足もとを見た。  波が打ち寄せている。視界を埋めるのは、紺碧の海原であった。  ところどころで波頭が砕け、陽光を光の粒に変えている。その果てまでは万里の航海を要すると思われた。 「目的は——そう、おまえの能力検査じゃの。どうする?」  声の問いに答えず、Dは立っていた。  下半身が動いた。  波が引いていく。  抵抗する間もなく、腰まで水に漬かっていた。  波はセンサーであり、その移動自体が調査結果の伝達処理の役を果たしているのであろう。 「くくく……面白い。砂漠が海か。おまえを驚かせるつもりらしいが、さて、驚くのはどちらか」  声の内容は、言い終わらぬうちに証明された。  Dを取り巻く大海原に、明らかに驚愕と思しき「感情」が走ったのである。  沈黙が世界を覆った。 「どう扱ったものか、手をこまねいておるな」  声は、嬉しくてたまらない、という風である。 「こうでなくては、おまえにくっついている意味がない。さて、どう出てくる?」  答えは、Dが出した。  海原の一点を見つめたのである。  白い航跡が一筋、かなりのスピードで近づいてくる。 「来たの。——海には鮫がおる」  声の指摘を知ってか知らずか、Dは立ち尽くしたままである。  距離は約五十メートル。  四十メートル……三十……二十……  すっと航跡が絶えた。  水を裂いていたものが、水中に没したのであろう。 「油断は禁物じゃぞ。敵はあくまでも幻覚じゃ。おまえの精神力でのみ打ち克たねばならん。切っても切れんぞ」  突如、水面が盛り上がった。  青黒い魚の影が水を砕いて躍る。空中へ。全長三・五メートル、体重二百五十キロは下らぬ流線形の巨躯。  その前方に開いた巨大な口と赤い口腔。白い槍穂のごとき牙。  そのすべてを銀色の光条が断った。  わずかに身を屈めたDの頭上で、巨大な魚は二つに裂け、派手な水飛沫を上げつつ水中へ落ちた。  白い光を映す|水珠《みずたま》は、たちまち紫に変わった。魚の吐いた鮮血であった。  だが——  Dの眼は背後に走る二筋の血の帯に吸いつけられていた。  たちまち、それは相寄り、合流し、一本の航跡となるや、悠然とDの周囲を巡りはじめたのである。 「敵もさるものじゃな」  声に緊張がこもった。 「おまえの精神力が敵の力に勝っておれば、あいつを切った途端に、わしらはもとの土の上じゃ。それがそうはいかんかったとなると、こりゃ厄介だぞ。殺しても殺しても敵は来よる」  Dの応答は平静であった。 「それでも、いつかは死ぬ。幻であろうともな」 「くくく……夢も殺すか。おまえならできるだろう。——来るぞ」  航跡が絶えた。  下半身に押し寄せる水の層をDは感じた。敵は水中から襲うつもりらしかった。  いかなDの剣といえども、水中では威力、スピードともに半減する。幻の水は、このとき、真の海水であった。  Dの身体は沈んだ。剣を左腰に回し、抜き打ちの構えをとる。  水の揺らぎが敵の距離と速度を示して——  一瞬、Dの眼前を真紅のかがやきが縫った。  それは、青い空に異を唱えたまま、いつまでも消えなかった。  水中の敵が苦痛に悶える。次の刹那、世界は暗転した。  白い砂の上に、長く長く美しい影が這っていた。 「ほう」  と声が低く言った。 「見事にやりおった。一体、誰が……?」  背後から近づいてくる気配に、Dはふり向いた。 「無事かい!?」  荒い息を吐きつつ、婆さんはラッパ銃を構えた。 「あんたの様子がおかしいうえ、前の砂が盛り上がってぐんぐん近づいてくるんで、一発ぶっ放したんだよ。一体、ありゃ何ものだい?」 「鮫だ」 「へ?」  婆さんは眼を丸くした。  Dは何事もなかったように、岩山へ向かう。ランスが元の位置に立っていた。 「一体全体」  と痴呆のようにつぶやいて、額の汗を拭った。 「ずうっと突っ立ってるから、何してるのかと思えば、いきなり剣を抜いて、ずばっ、だ。もっとも、抜いたとこは見えなかったがよ。何を切ったんだい?」 「鮫だ」 「はん?」  ランスは口を開けた。 「見えなかったのか?」 「ああ」  Dは背後を向いた。 「次はどうするんだね?」  婆さんが不安そうに訊くのへ、 「待つことだ」  それだけ言って、Dは洞窟へ戻った。  夕暮れになった。  足りないものがある。クレイだった。出たきり戻ってこない。 「どうしたんだろうねえ」  と婆さんは心配そうな声をあげたが、クレイの身を案じるというより、労働力が欠けては困るという方が本音だから、Dは気にとめる風もない。 「この砂漠にやられちまったのか……ねえ? ねえってば。——もう。冷たい男だこと。いまじゃ、みな仲間だよ。少しは気にしたらどうなのさ」 「ついて来たのはそっちだ」  Dは洞窟の奥の闇に溶けていた。婆さんの手にしたランプだけが、周囲をオレンジの膜で包んでいる。 「そら、そうだけど、もう少し言い方があるだろう。あんた、いざとなったら、あたしたちを置いて逃げ出す気かい?」 「来る来ないは、そちらの好きにしたらいい。出かけるときは知らせる。それだけだ」 「もう」  婆さんは地団駄を踏んだ。 「あたしひとりじゃないんだよ。タエのことが気にならないのかね?」 「どうしている?」 「ほうれ、やっぱり」  婆さんは、してやったりと破顔した。 「どんなに冷たく見えても、あんたは、あたしたち以上に人間の赤い血が流れてるのさ。それにゃあ、温度がついてる。どうやら、その辺の奴らのより高そうだね。安心おし。あの娘は昼からずっと、裁縫技術の習得に励んでるよ。昔、習っただけあって、筋はいい。じき、一着つくっちまうだろう」 「何を縫っている?」 「それは——」  婆さんは口ごもった。 「——見せようとしないんでね」 「敵が来るなら今夜だ。夜明けまで何もなければ発つ。用意はいいな?」 「いつでもオーケーさ」  婆さんが答えると同時に、洞窟の外で人の気配が動いた。 「ほい」  軽く一メートルも跳び下がった婆さんの手は、腰の壷に触れている。  Dの方は——とうに気づいていたのか、身じろぎもしない。  クレイであった。 「随分とゆっくりなお帰りだね」  婆さんの鋭い視線と声は、すでに異常を勘づいていたのかもしれない。 「おまえたちに見せたいものがある。一緒に来い」  クレイは棒のような声で言った。術にかけられているのは一目瞭然であった。 「来たよ、来ましたよ」  と婆さんが呻いた。 「どうするね、D?」  奥の闇が人の形をとった。  クレイは背を向け、ゆっくりともと来た方へと歩き出した。  Dも後を追う。婆さんの方は見向きもしない。  外は闇の国であった。 「ちょいと、あの二人はどうするのさ?」  婆さんはクレイに声をかけた。 「もう、連れて行った」  婆さんは眼を剥いた。自分はおろか、Dにさえそれと気づかせず、二人を拉致するとは、信じ難い敵であった。  きりり、と歯が鳴り、右手が壷にかかる。 「後にしろ」  Dが言った。 「なんでさ?——あいつをいま、ひっつかまえて、二人の居所を吐かせちまえば楽だよ。相手の待ってるところに、のこのこと出掛けるなんて、あたしの流儀に反する」 「相手は奴じゃない。操っているもの[#「もの」に傍点]だ。ここで術を解かれたら、何も知らない男が残るだけだ」 「ふむ」  婆さんは、あっさり力を抜いた。状況判断は的確である。壷にかけた手は離さない。  三人は砂漠へ出た。  砂だけがあった。  月が出ている。  踏みしめるたびに、砂は奇妙に哀しげな音をたてた。  クレイは躊躇せず前進をつづける。方向感覚は、操るものが担当しているのだろう。  岩山はとうに闇に呑まれた。  三十分も歩いただろうか。  クレイが足を止めた。  砂漠の真ん中である。三つの影だけが、銀砂の上に伸びている。  不意に声がした。  Dと婆さんの頭の中に、である。  年齢も性別も不明。有機物か無機物かもわからない。  ——おまえたちのような存在——人間ははじめてだ。私の世界の外には、さまざまなもの[#「もの」に傍点]がいるとみえる。 「二人はどうしたい!?」  婆さんが四方を見回しながら叫んだ。 「片っ方はともかく、女の方は大事なお客だ。おかしな真似したら、承知しないよ!」  ——そちらの方は、いま、調べている。あれもなかなか興味深い人間だ。 「ふん、人間なんて、ランスひとりで十分調査済みじゃないのかい。——そうか、女ははじめてなんだね」  ——いや。 「まあ、いい。あの娘は何処だい? すんなり、お返し。そして、あたしたちをおとなしく通すんだ。ついでに、目的地の方角も教えておくれ」  声は沈黙した。嘲っているような気配が、闇の向こうから伝わってきた。  それが、ぴたりと熄んだ。闇より深い声がそうさせたのである。 「おまえは砂漠そのものか?」  Dは前方を見つめたまま訊いた。  婆さんと違って、力などどこにも入っていない。だが、ひとたび必要となれば、全身が鋼鉄の|発条《ばね》と化すことを、彼の相手だけは知っている。  ——そうだ。  答えはやや遅れてやってきた。 「いつから意志を持った?」  ——わからない。心当たりがあれば教えて欲しいものだ。 「おれたちをどうするつもりだ? 情報を引き出し、あの男のように飼い殺すか?」  ——そんなことはせん。いや、できん。しようとしても、おまえがそうはさせまい。あいつなど比べものにならんほど危険な人間だ。 「なら、どうする?」  ——その質問はそっくり返そう。 「ここを出る」  再び静けさが二人を包んだ。砂の平原は無言で耳を澄ませていた。  ——よかろう。  声は感情を交えずに言った。  ——おまえと争うのは、極めて危険なことだとわかる。何もせんから何もするな。 「今、出て行くぞ」  ——好きにしろ。私の知りたいことは、他の連中から訊こう。 「ちょっと、お待ち」  婆さんが険しい視線を黒衣の若者に投げた。 「あんた、まさか、あたしたちを置いて出ていくつもりじゃなかろうね?」 「おれにはどんなつもり[#「つもり」に傍点]もない。おまえたちがついて来ただけだ」 「じゃあ、今度もついてくよ。文句はないだろうね? あたしたちが危なくなったら、力を貸してもらうよ」  突然、婆さんの身体は硬直した。  ——おまえたちには、まだ、用がある。  老婆の頭の中で鳴り響く声をDも聴いた。  ——あの男は裏切りの故に処分するが、おまえと後の二人は、ゆっくりと調べさせてもらおう。来るがいい。 「助けておくれ——D」  婆さんは悲鳴をあげた。  無理もなかった。砂は足首を包んでいた。  沈んでいく! 「——D!」  婆さんは叫んだ。  ——安心して行くがいい。  声はDに告げた。  ——生命を奪うようなことはせん。人間のことを知るのに、貴重なサンプルだ。 『ひとつ訊かせてもらおう』  Dは声に出さずに言った。 『人間を知ってどうする?』  ——黙って行け。無事に出られるだけでも、ありがたいと思うがいい。 『もうひとつ——あの球体と蝶は何だ?』  ——おまえたちの居所を知るための道具だ。球体がしくじったので、蝶を送った。あの模様を見ると、脳が特殊な電波を出す。 「助けておくれよ、D」  婆さんの金切り声は、彼の足もとでした。 「あたしはいいんだ。あの娘を——タエを助けておくれ」  ぐふ、と喉が鳴り、婆さんの頭は砂中に没した。つづいて、クレイも消えた。  漏斗状の窪みが残り、四方から崩れた砂がそれを埋めた。  手をさしのべるでもなく、Dは砂の表面を見つめていたが、すぐに岩山の方へ歩き出した。  数歩で停止した。ゆっくりとふり向き、再び前進する。  ——愚かな男だ。  嘲笑する声には敵意が露骨だった。  ——もう一度考えろ。我々の戦いはどちらのためにもならん。  答えは無論ない。  婆さんの消滅地点に立ち、Dは左手を上げた。何処からか、激しい動揺が伝わってきた。  ——よせ。  声と同時に、天地は咆哮した。  風の唸りが剛体と化してDを直撃する。  持っていかれた。  一気に宙をとび、砂漠の果てへ飛翔する。秒速五十メートルは下るまい。  Dの左手は降りていなかった。  五指を開いた手のひらに忽然と人の顔が浮いた。  皮肉っぽい眼と鷲鼻と小さな口。  その口が開かれた途端、風の怒号は一気に吸い込まれた。  声は動かす力を失い、Dは音もなくその場に立っていた。 「うまいぞ」  と、嗄れ声が言った。 「この風、なかなかいける」  その風のごとき速さでDは舞い戻り、左手を足もとの地面——婆さんが吸い込まれた地点に向けた。  小さな顔が唇を尖らせるのを見たら、バイパー婆さんといえども仰天するだろう。  まして、そこから、凄絶な勢いで新たな風が噴き出すとは。  砂が弾けとんだ。  見る見るうちに、直径二メートルもの穴が砂上に穿たれていく。  ——やめろ。  Dの頭の中で絶叫が炸裂した。  ——やめろ、やめろ、やめろ。  次の瞬間、黒い人影は大地に呑み込まれた。    2  砂中の降下を意識したのは数瞬であった。  砂の抵抗が霧消すると同時に速度が増し、Dは固い地面の上に降り立った。  石の床である。  四方から巨大な質量が迫ってくる。  地中の大洞窟——天然のものだ。  ——ついに来たか、馬鹿ものが。  声の罵りも聞かず、Dは無感動に周囲を見回し、じき、右斜め上方の闇へと歩き出した。  一同がさらわれた場所が、この若者にはかくも簡単にわかるのか。  辺りは真の闇である。光も通れそうにない分厚い暗黒を、Dは平然と通過していく。  その眼が人の形を捉えるまで、五十秒を必要とした。  石の床に四つの人影が倒れ伏している。  歩み寄ろうとする眼の前で空気が動いた。  びゅっ、と風が鳴った。  それは、断末魔の叫びをあげて、Dの足もとに落ちた。  翼を持った生物だが、一見、邪妖精になりすました身体は、飛翔のためとはいえ、異様なくらい細かった。  唇と指先から伸びた牙と鉤爪を、Dは見逃さなかった。  つづけざまに空気が切り裂かれた。  わずかな光でもあれば、Dめがけて四方から殺到する異形のものが見えたであろう。  Dの手練もまた。  いつ抜いたのか、優雅な長剣を握る手が閃き、攻撃者はことごとく地上に激突した。  刃を収めず、Dは歩き出す。  その足の下から、不意に手応えが消滅した。大地が裂けたのだ。  数分の一秒——Dは後ろ足で地を蹴った。  跳躍は上体が崩れていた。  大地はなおも開いていく。  Dは降下に移った。  正確なフォームがとれぬ分、飛翔距離は延びなかった。  身体は深淵に落ちた。  左手が伸びる。  間一髪、後退する地面の|縁《へり》にかかった。  Dは一気に跳ね上がった。  両足が床を踏みしめると同時に、亀裂は停止した。  Dはふり向いた。闇を見通す眼に、大地は何事もなく横たわっていた。  心理攻撃であった。  存在しない奈落へ落ちていれば、自らそう思い込んで、永劫に落下をつづけていたであろう。  Dは四人に近づき、タエのかたわらに膝をついた。  左手を口もとにあてる。呼吸は正常だ。  左手は額に移動した。  どんな技が使われたのか、タエは両眼を開いた。 「無事か」  Dは短く訊いた。  タエの両手が左腕を掴んだ。 「D——あなたなの?」 「そうだ」 「何も見えないわ。ここはどこ?」 「地の底だ——歩けるか?」 「ええ」  Dの腕にすがったまま、その立ち上がる速度に合わせて、タエは起き上がった。 「そこで待て。二人を起こす」 「嫌です。こんな真っ暗闇の中で独りぽっちなんて嫌」  タエは両手を離さない。 「では、コートを掴め」  それでも動かない。  Dは右手を曲げて、肩の近くに絡むタエの両手首を握った。 「——!?」  娘の身体が小さく震えた。  両手はDの腰まで押し下げられ、タエはコートを握りしめた。  その顔が闇の中で上気しているのに、Dは気づいたかどうか。  左手は残る三つの額にあてられ、その持ち主を覚醒させた。  タエと違って、全員がただちに状況を把握した。 「出られるかい?」  と訊いたのは婆さんだ。 「わからん」  Dは相変わらず素っ気ない。 「地の底だが、違うかもしれん」 「何だ?」  クレイが眼を剥いた。と言っても、D以外にはわからない。 「どういう意味だ?——そうか、心理操作だな。洒落た真似しやがる」 「どっちにしても、どうすれば上へ戻れるね?」 「決まってらあ。操作してる奴を片づけりゃいいのよ。——おい、ランス、いるか?」 「ああ」 「おめえ、そいつの居場所に心当たりはねえのか?」 「見当もつかないね」 「けっ、能なしが」  クレイは吐き捨てた。 「まあ、いい。何処に隠れていようと、じきにいぶり出してくれる。おい、ハンター、みんなをおれの後ろに回せ。一曲奏でるぜ」  竪琴を手に、クレイは立ち上がった。 「指向性の破壊音波を使う。少し気分は悪くなるが、我慢しな」  恐るべき楽器の弦に武骨な指が触れた。  闇に光が生じたのはこのときだ。  四人を取り囲んで、無数の光球が瞬いたのである。はじめて、四人は各々の顔を確認した。 「こいつは……?」  ランスが呻いた。 「心当たりがあるのかい?」 「ああ。おれがここへ連れて来られた晩に現れたのと同じだ。見張りだよ。触れると麻痺するんだ」 「ほう。すると、操ってる奴の手か足ってことになるな」  クレイが舌舐めずりをした。その口調から何を感じたか、タエが黒いコートをきつく握りしめた。 「面白え。人間さまをモルモット代わりにするとどんな目に遭うか、じっくりと教えてくれる。食らえ!」  世にも美しい音色が死を乗せて走った。  クレイの前方で、光球が音もなく砕け散る。 「ざまあみやがれ」  と罵ったのは、何処からともなく紛れもない苦痛を感じ取ったからだ。 「やっちまいな!」  婆さんが応援する。 「おお」  クレイの身体が旋回した。  タエの絶叫がその動きを凍らせた。 「ど、どうしたね?」  大慌てでふり向き、次の刹那、婆さんはかっと両眼を見開いた。 「ば、化物!」  声は、婆さんとランスの口から放たれていた。  Dにすがりつき、その顔を見上げて、タエはもう一度絶叫した。 「眼を閉じろ!」  暗黒の狂乱を、鋼の声が貫いた。  低いが、全員を従わせる力がこもっていた。 「心理操作でお互いが化物に見えるだけだ。いいと言うまで開けるな」  眼を固く閉じ、クレイはDの方を向いた。  呻き声が唇を割った。戦慄の叫びだった。 「この化物があ!」  声と同時に右手が動き、腰の楽器が美しい死の音をたてた。  Dが突きとばしたタエの頭上を越えて、超音波は闇に消えた。何処かが崩れた。 「眼をつぶっていても見えるよ、D!」  バイパー婆さんの顔は蒼白であった。 「下を向いていろ」  言い捨てて、Dは跳躍した。  闇に溶けた闇。白い美貌だけが、身体の位置を示していた。  クレイの竪琴がやみくもの第二音を放とうとする頭上を越えて、彼の背後に立つ。  悲鳴をあげつつ、クレイは回転した。狂気の形相である。  Dの背中から一刀が弧を描いた。  それを間一髪でかわしたばかりか、後方へ大きく跳んで逃げたのは、さすが辺境でその名も高い戦闘士の片割れであった。  しかし——  着地しざま、暗黒の網膜に映じる何か[#「何か」に傍点]へ超音波を送る暇もなく、後頭部で鈍い音が木霊するや、クレイは呆っ気なく床にへたりこんだ。 「やったよ!」  婆さんの声が聞こえた。  Dの眼は、火薬式拳銃を片手に下を向いたまま立つ婆さんの姿を見た。  タエとランスは地に伏している。最良の手段だった。 「心理攻撃だね?」  婆さんが尋ねた。 「そうだ」 「どうすりゃいい?」 「撥ね返す」  Dの答えは短い。 「ほう」  喜色満面の笑顔が見えるような、婆さんの返事だった。やる気なのだ。 「次は何が出てくるかね?」  そう言って無意識に辺りを見回し、 「おや、もう普通に見えるよ。つまり、何にも見えなくなった」  と言った。  Dの言葉がそれに応じた。 「次が来たぞ」 「え!?」  もう一度、慌ててふり向いた婆さんの視界に、奥の闇から近づいてくる二つの人影が映った。  闇よりも昏く、闇の中でもそれと知れる存在。  向かって右の影は幅広の鍔がついた帽子をかぶり、コートの裾を闇の風にひらめかせていた。  その隣——ざんばら髪をふり乱したはるかに小柄な影を見つめ、婆さんはこうつぶやいた。 「あたしと——D」  Dはすでに真相を悟っていたのかもしれない。  手にした一刀を、彼は背の鞘に収めた。  チン、と美しい音がした。 「こいつら、幻だね?」  婆さんが身構えたとき、  ——よく見破ったな。  あの声が言った。  ——だが、単なる夢ではないぞ。見ろ。  びゅっ、と空を切る音が早かったか。跳び退く婆さんが早かったか。何事もなく身構えた皺深い顔を、つう、と青黒い筋が二分した。本物の血であった。  ——その血はおまえの身体を流れているはずのものだ。夢の世界であろうとも、死はやってくる。ここでは現実こそが夢にすぎん。切られたと思い、血が出ると思えば、この通りいつわりなく流れ出す。その二人は、いま、おまえたちのデータをもとに創り上げたものだが、体力や総合的な強さにおいては、寸分の狂いもなく互角のはずだ。つまり、どちらも永久に勝ちも負けもせん。それがどんな戦いか、よく眺めさせてもらおう。  にせのDが跳んだ。  頭上から、全体重と加速度を剣のスピードに加えて、Dの頭頂に叩き下ろす。  耳を覆いたくなる金属音が、青い火花と化して飛んだ。  抜きざま、自身の攻撃を防いだ長刀を、Dはその位置を崩さず、横なぐりに薙いだ。  手応えはない。敵もDなのだ。  二つの影は三メートルと距離を置かずに睨み合った。  どう出る?  すべての手の内を知られながら——にせのDが剣を引いた。長時間の戦いは不利と見て、必殺の一撃に賭ける気だ。  空気が袈裟懸けに鳴った。  十分に距離をとった一撃。  Dは一歩前に出た。  刃も同時に出ていた。  にせDの一撃が肩に喰い込んだ瞬間、Dの切っ|尖《さき》も相手の胸から顔を覗かせた。 「やるな」  Dが言った。  彼が一歩踏み出して刃の力点をずらしたように、敵も心臓への突きを数ミリでかわしてのけたのである。百分の一秒の神技であった。声の宣言に嘘はないようだ。  二人は膠着した。  先に動いた方がやられる。  同時に跳ねた。  空中で光条が交差した。風を切る音は後からやってきた。  着地したDの額を黒い線が割った。跳び違いざまに放った敵の一刀の仕業であった。  敵がにっと笑った。横一文字に切り裂かれた胸もとから、Dのみに見える鮮血の滝が布の上を流れ落ちていく。  肩を割られただけと、胸を刺されたものの差だ。  敵が走った。  Dの視界が揺れた。額からこぼれる血の糸がひと筋、方向を変えて右眼を刺したのである。  迎え討とうと放った剣|尖《さき》は、わずかに動きを乱して、敵の頬肉を削り、敵の一閃はDの心臓を貫いていた。  声もなく片膝をつくDの胸へ、非情の刃は斜め上方から深く深く刺し込まれていく。  ——片づいたな。  声は疲れたように言った。  その声が息を呑み、いまひとりのDが眼を剥くとは、誰が考えついただろう。  下方から刃を掴む黒い手を敵は見た。  Dの顔が上がった。  その眼は赤光を放っていた。  ——貴様!? まさか……  Dの下肢に力がこもった。この若者の体内を流れる貴族の血は、異形の力を与えるのか、心臓を貫かれてなお、彼は徐々に徐々に立ち上がったのである。  敵は刀身を引こうと努め、さらに突こうとした。  ぴくりとも動かない。力の均衡はすでに破れていた。  低い唸りがDの唇から洩れた。  もうひとつ。——二本の牙が。  額から滴る血潮の軌跡が、その唇の端へ消えていることに、敵が気づいたかどうか。  跳び離れようとしたときは一瞬遅く、Dの太刀は真っ向から敵の頭を割り、一閃反転して、その心臓を刺し貫いていた。  敵は崩れた。  塵と化した顔が、最後まで恐怖の相を浮かべなかったことに、Dの無表情は満足気であった。  暗黒の重圧が不意に消えた。  足もとに映る自分の影をDは見つめていた。銀砂の上である。敵の造り出した幻影を斃したことで、心理攻撃が解けたのだ。  胸に剣はなく、額の血潮もない。長剣だけを握っていた。  あまりにも巧妙な心理操作がDの魔性を甦らせたのだ。しかし、それは果たして、現実であったのか。 「恐ろしい相手じゃったの。いや、あれ[#「あれ」に傍点]を造った奴のことだが」  Dの何処かで低い声が皺深く鳴った。 「力を入れた分、ダメージも大きかろう。ここを出るなら、今が得策じゃぞ」  答えず、Dは周囲を見回した。  砂地の上に三つの影が伏し、もうひとつ——小柄な影が身構えている。  バイパー婆さんであった。  まだ、敵とやり合っているつもりなのだろう。心理操作の効き目は、Dよりも深かったようだ。  Dは長剣を背の鞘に収めた。  澄んだ金属音が鳴り、婆さんは身震いした。  きょとんとした表情で周りを見渡す。まず、Dに気づき、眼をしばたたいた。 「——あんた、一体? いま、ここで戦ってたと——そうか、心理攻撃が解けたんだね!?」  はっとしたようにふり向き、タエを見つけたのは、やはり職業意識だろう。  悲鳴に近い叫びをあげて駆け寄り、まず脈をとる。内出血している場合を考えてか、揺さぶったりしないのはさすがだ。  安堵の感情たっぷりに、両肩が落ちるのを見届け、Dは天空へ眼をやった。  月は澄み渡っている。  Dは岩山の方角へ歩き出した。 「後はまかせた。二十分後に出るぞ」    3  三時間で東の地平線が青みを帯びはじめた。  朝日と引き換えに風が出た。  容赦なく吹きつける砂粒がフードに当たって、鈴の鳴るような音をたて、婆さんは砂粒が混じった唾液を、御者台の外へ吐き捨てた。  Dもクレイもスカーフで鼻から下を覆って、車の左右を行く。  平地なら時速百二十キロを誇る車も、今はその十分の一がやっとだ。  婆さんは焦っていた。  Dが敵に与えたダメージは致命傷とはいえない。傷が癒えれば、必ず次の手を打つだろう。  竜巻でも起こされたら、また元の木阿弥、いや、さらに悲惨な結果が待っているにちがいない。  回復前に少しでも遠くへ逃げるのは、至上命令といえた。  敵の力が、砂漠全域をフォローしていないことを、老婆は胸の|裡《うち》で願っていた。  だが、いま、自分たちは何処を走っているのか。  方角はともかく、位置がわからない。  婆さんは奇妙な眼で、車の右前方をゆくDの背を見つめた。  この|吸血鬼《バンパイア》ハンターによれば、南々西へ約二百キロの地に目的の町があるという。どうしてわかるの、と訊いても答えはない。  いつもなら、おふざけでないよ、とがなるところだが、あっさりと承知してしまった自分の気持ちが、婆さんにはまだよくわからないのだった。  ダンピールだということはわかっている。貴族の血が混じった男なら、その卓越した能力にも驚く必要はない。だが、この若者は、それだけではないような気がした。  ただのダンピールなら、婆さんもよく知っている。  確かに人間より数等秀れてはいるが、限界もまた存在した。それなりの苦労をすれば、刺し違えてでも斃せないことはない。  その結論が、眼の前の美青年には、まるっきり適用できないのだ。  殺せるだろうか?——そんな考えすら浮かんでこない。  闇が凝結したような若者がその気になれば、どんな相手でも闇の深淵に吸い込まれてしまう。——本能的な直感を、婆さんはこれも本能的に間違いないと悟っていた。  頼もしいはずのその黒い後ろ姿が、何故か不気味なものに思え、婆さんはつい、声をかけてしまった。 「ねえ、D。——この砂漠に止めを刺すにゃ、どうすればいいんだい?」  予想通り、返事はなかった。  別の声が左手から聞こえた。 「へっ、わかりゃあしねえさ。誰にだって、そんな桁はずれな答えが出るもんかよ」  自分が操り人形と化していたと、婆さんから知らされた屈辱のせいか、前より毒々しい悪態をつくクレイへ、婆さんは愛想笑いを送った。 「まあ、そう言わずに。あんたを助けるのに、あの男だって、少しは力を貸してくれたんだからね」 「けっ。借りはいつか返してやらあ」  クレイは車の方をふり返った。 「それよりよ、二人を一緒にさせといていいのかい? あの百姓、堅そうな顔して、結構、手が早えかもしれねえぞ」 「仕様がないだろ。あんたと違って、あの二人は並の人間なんだ。心理攻撃の余波がまだ抜けちゃいないのさ。断っとくけど——」 「わかってらあ。あたしの商売もんに手え出すと承知しないよ、だろ? へっ、そんなに心配なら、首に鎖でもつけて、その端を握ってるんだな。おれは何の約束もしねえよ。正直に言うとな、“隠されっ子”って奴と、一回寝てみてえと思ってたんだ。おーっと——」  婆さんの全身から放たれる殺気を感じてか、クレイはにやつきながら、後退した。  舌打ちして前方へ向き直り、婆さんは緊張に身を硬くした。  Dが立ち止まっている。 「どうしたね?」  声に怯えが出た。哀れっぽく見せようという魂胆も働いている。 「砂嵐だ。約二キロ先だな」 「竜巻かい?」 「砂嵐だ」 「何も見えないよ」  婆さんは眼を細めた。 「真っすぐ行けばぶつかる。迂回する手だな」 「遅れちまうじゃないか。あんただって、困るだろう?」 「ただの砂嵐ならいいが」 「いい加減なこと言うんじゃねえよ」  クレイが噛みついた。 「おれにも何ひとつ見えねえぜ」 「おれには見える」  静かなひと言に、歯も剥き出さずクレイは沈黙した。 「——それとも、行ってみるか」 「えらい!」  婆さんが派手な音をたてて膝を叩いた。 「そうこなくっちゃ。なんだい、砂嵐のひとつやふたつ。あんなもんで足止め食わされちゃあ、一生、男だって言って歩けないよ」 「冗談じゃねえ。おれは反対だぜ」  クレイがごねるのを、 「あら、辺境一の戦闘士と聞いてたけど、意外と見かけ倒しだね」  婆さんが効果覿面の一言を浴びせかけた。  クレイの顔に、見る見る血が昇った。 「ふざけるな。おれは怖くて言ってるんじゃねえ。兄貴を探さなきゃならねえんだ!」 「あらまあ、可哀相に。ねえ、D、あたしたちが攫われた位置からここまで、どれくらい離れてる?」 「約百キロだな」 「いくら兄弟愛で馬をとばしたって、どうにかなる距離じゃないよ。兄さんのことは運を天にまかせるんだね。運が良けりゃ二、三年後に砂漠の外で会えるだろうし、悪ければ日干しで野垂れ死にさ」  このとき、奇怪な反応がクレイを襲った。野獣のような男とはおよそ無縁な、不気味とさえいえる微笑が、顔全体に広がったのである。 「兄貴が日干し…? ……死ぬ、だって? そいつぁ面白えや。是非一度、この目で見てえもんだ」  凶暴精悍なイメージからは想像もできない死人のような声に、さしもの婆さんも表情をこわばらせたとき、車の後部ドアが、不意に下方に落ちかかった。 「——!?」  内蔵された踏み段の上を白い影が駆け下り、砂を蹴散らしつつ、車の右方へ走り出た。 「タエ!」  婆さんが仁王立ちになった。 「捕まえとくれ、D!」  叫びに応じてサイボーグ馬が馬首を巡らせた。  走り出そうとした馬体が大きく前へのめったのは、次の一刹那だった。  その上を、黒い影が魔鳥のごとく跳んだ。  五メートルも離れた地面へ降り立つや、Dは既に抜いていた一刀を、足もとの砂へ深々と刺し通した。 「——どうした!?」  辺りを見回すクレイへ、 「復活したらしいぞ」  と告げる。その間に、タエの姿は娘の足とは思えぬスピードで、砂丘の間を遠ざかっていく。 「待ってくれ、タエさん!」  車の後部ドアから、ランスが頭を押さえながらまろび出た。 「何があったのよ!?」  婆さんの怒号に立ち止まり、泣きそうな声で、 「わからない。話をしていたら、急にスパナで頭を殴られた」 「そこにおいで。あたしが何とかする」  婆さんは立ったまま、右手を壷にかけた。  だが、Dは動けず、タエとの距離は開く一方——すでに百メートルを越えた。  婆さんの手が壷から出た。  拳を握っている。  その指の間から、さらさらとおびただしい色彩の粒が流れ落ちはじめたのを、クレイは背後から目撃した。  すぐに流れは絶えた。  婆さんの足もと——御者台の上や砂上に落ちた粒がどうなったのか。戦闘士の本能ともいうべき好奇心に駆られて、馬の腹を蹴ろうとした瞬間、婆さんがぐいと上半身を屈めた。  その足もとで、青い閃光が迸った、と思ったのも一瞬の間だ。  砂丘の陰に呑まれかけていたタエの姿が、一気に崩れたのを見て、ランスが眼を丸くした。 「D——そっちはどうだい?」  婆さんが叫んだ。 「小休止だ」  その言葉に嘘はなかったらしく、立ち上がったサイボーグ馬も砂粒をふるい落としている。 「なら、行っとくれ。あの娘は気絶してるよ」  黒い影はコートを翻して走り出した。 「何やったんだい、婆ぁ? あの砂は一体、何だ?」  クレイの問いに、婆さんはふり向いてにんまり笑った。 「企業秘密さ」 「ふざけるな」 「あんたの使う手品と同じさ」  それは戦闘の手段ということであった。  凶暴と冷酷と——二対の眼が空中で見えない火花をとばした。  Dはタエを抱き起こした。  不意に倒れた理由は老婆の技によるものだろうが、その内容まではDにもわからない。  タエの髪が逆立っているのを見ると、電撃でも浴びたものだろうか。  だが、老婆と娘の間に何の交流もなかったことは、D自身の眼が確かめている。すると、どうやって——?  軽く頬を叩くと、タエはすぐ眼を開けた。 「……D?」 「動くな。——何があった?」 「わかりません」  タエの眼には恐怖の色がある。 「ランスさんと話している間に、外へ出なければいけないような気分になって。外へ出ろって、声が——」  やはり、砂漠が元に戻ったのだ。  抱き上げようと片手を伸ばしたDの背中で、だしぬけに砂が跳ねた。  いや、それは人の形をしていた。  かっと見開いたタエの瞳の中で、銀色の光条が走った。  腰から上だけを砂中から露出したそいつの輪郭が不意に崩れ、次の瞬間、黄色い砂の堆積となって砂漠に溶け込んだ。  タエが悲鳴をあげた。  二人の左右で次々と砂が持ち上がり、そのことごとくが人間の形をしていたのだ。  沼から湧き上がる|瘴気《しょうき》が凝結でもしたかのようであった。  棒のような腕がDの首へと伸びた。  斜めに噴き上がる銀光が、それを半ばから断ち切った。  数本の腕がことごとく地に落ちると、苦痛でも感じるのか、そいつらはのけぞり、ゆっくりと地面へ沈んでいった。 「まだ、いるわ!」  タエの眼は、周囲の砂の海から浮き上がるおびただしい楕円形の頭部を映していた。  車まで戻れるか。  百メートルの距離は絶望でしかなかった。  娘の腰をたくましい腕が抱いた。  自分を守るものの不敵な美貌をタエは見つめ、その名前を口にした。  不安は霧のように消えた。 「行くぞ」  と吸血鬼ハンターは言った。 「はい」  タエはもう恐れなかった。  砂塵が迫ってきた。  頭部には眼も鼻も口もなく、ずんぐりした石に丸木をくっつけたような体躯には、すべての凸凹が欠けている。  砂から生まれた身長二メートルの不気味な人間のオブジェ。  その間を、黒い影は風と化して走った。  行く手を塞がんとする手も胴もたちまち切断され、あるものは砂の上で、あるものは空中で砂塵へと変貌する。  一気に二十メートルを走破し、なおも立ち塞がる敵の右肩へ、Dは無造作に刃を叩きつけた。  異様な手応えにふさわしく、それは胸の半ばまで斬り込んで停止した。  刃を引き抜くと同時に、そいつは躍りかかり、Dの頭上で砂に還元した。  四方から立ち上がる砂人どもを尻目に、Dは静かに長剣を観察した。  刃に黒い粒がこびりついている。  砂鉄——これが切れ味を鈍らせた元凶であった。  鋼に吸いつく以上、強力な磁力を帯び、そのせいで人間の形を保っていられるに違いない。  理由はわかっても、Dの攻撃力が格段に落ちたことは否めない。  四方は砂の妖物たちに埋め尽くされていた。  タエがDの腰にすがりついた。  Dは無言で刃を見つめた。  清涼な冷たい眼差しであった。生も死も喜びも哀しみも、この若者は同じ眼差しで見据えてきたのだろう。  ごお、と風が吠えた。  異様な戦慄が背筋を貫き、タエは砂人たちが停止するのを見た。  後退っていく。  もう一度Dを見上げ、タエはその理由を知った。  Dの両眼は赤光を放っていた。  風に乗って走った。  砂人群の中心へ。  立ちすくむ彫像へ破壊の|打擲《ちょうちゃく》を行う芸術家の冷徹さで、長剣が弧を描いた。  すでに刀身はこびりついた鉄分で分厚く黒い。  貴族の血がいかなる力を発揮したか、砂の魔人たちはあるいは頭頂から股間までを斬り下げられ、あるいは胴体を輪切りにされて、例外もなく元の物質へ戻った。  崩れた身体を風が砂塵と変えてDの顔に吹きつけ、その中で、真紅の双眸のみが限りなく妖しく美しく瞬いているのであった。  遠くで誰かが叫んでいた。  Dは跳躍し、かたわらの砂丘の陰に入った。  その左横手から、ぬう、と砂人の上体が生えてきた。  絶叫を放ちかけたタエの眼の前で、Dの左手がのっぺらぼうの顔面を鷲掴みにした。  指の間から砂煙が噴き上げ、それは土塊のごとく粉砕された。  次に展開した光景は、奇蹟のようであった。  おびただしい砂人たちが、一瞬のうちに微塵に砕けるや、雲と散じてしまったのである。  巨大な手で、なぐり消されでもしたかのように。 [#改ページ] 第五章 闇の森    1  車へ戻った二人を、婆さんの怒りの表情が迎えた。  Dにもわからぬ技で砂人どもを斃しながら、得意そうな風もない。何か、タエに関するトラブルらしかった。 「水がやられたよ」  と婆さんは、とがめるような眼をタエに注いで言った。 「この娘が逃げるとき、タンクの栓を開けてったんだ。いま、止めたけど、この人数じゃ半日も保たない。ぎりぎり延ばしても三日だね」 「半分になりゃ六日は保つぜ」  クレイが面白そうに馬上から口をはさんだ。 「この水を誰が飲むか試してみねえか、え?」  眼には見えぬ緊張の糸が全員の間にみなぎった。 「そうだねえ」  と婆さんが横目で眺めた先にランスがいた。 「役に立たない奴が水を飲む必要はないわけだ」  ランスは眼を伏せた。自分の立場はわかっているのだった。 「四人なら、どれくらい保つ?」  唐突な声に、婆さんはあっけにとられて、黒衣の若者を見つめた。 「そうだね、ぎりぎり一日と半」 「二日にしろ」 「何とかなるだろう。けど、あんた、昼間の道行きはあたしたちより、辛いはずだよ」 「夜で補いはつく。おれの分は彼にやれ」  婆さんは顔を見合わせた。クレイと。 「驚いたね。あんたが他人のことを気にするなんてさ。血の代わりに溶けた闇が流れているのかと思ってたさ。——せっかくだけど、それはあたしとタエでいただくよ」  婆さんはここで、もう一度、驚かなければならなかった。  クレイが仏頂面で、 「おれもいらねえ」  と言ったのだ。  婆さんどころかランスまでがあんぐり口を開けた。  クレイはじろりとDの方を眺め、 「こいつが飲まねえのに、おれだけ喉を潤すわけにはいかねえよ。ひとりでいい思いをしたなんて言われちゃあ一生の恥だ」 「おお、おお、泣かせる台詞だこと」  婆さんは感極まったように首を打ちふった。 「あたしも長く生きてるけど、こんないい台詞はきいたことがないよ。男ってのはやはり大したもんだ。いいとも、あんた方の分は、みんなタエにやっとくれ」  あたし[#「あたし」に傍点]、と言わないのがこの老婆らしいが、すぐに三度めの驚愕が彼女を包んだ。 「その必要はないわ」  と当のタエが宣言したのである。 「何だって!?」  全員が娘の方を向き、遠い眼差しに出合った。  いま、逃亡した方角を向いている。  何にせよ、タエを導くべきものがあるのだった。 「何だろうね?」  婆さんがDの方に向いて言った。 「連れ戻す必要はなかったかもしれんな」  馬上で低く、吸血鬼ハンターはつぶやいた。美貌にも淡く疲労の影が浮いている。灼熱の砂漠と陽光は、貴族の血を引くものにとって最大級の敵だ。いかに超絶のダンピールとはいえ、体力の消耗は人間以上に甚だしい。  タエが御者台から身を躍らせた。  婆さんが手を伸ばすのを、Dが制止した。 「砂漠があの娘を招いているのは間違いない。水のタンクを壊した以上、ことによったら、おれたちも、な」 「どうする気なんだろうね?」 「行ってみるまでだな」 「危なくないだろうね」 「どこへ行っても危険だ」 「わかったよ。商品を放っとくわけにゃいかない。あたしゃ、ついてくよ。——あんたの後ろへね。おれは知らんなんて、真っすぐ前進しちまわないだろうね」 「そうするか」  つぶやいて、Dは手綱を引いた。  タエはもう歩き出している。  砂の上に残された足跡は、哀しいくらい小さかった。  それに導かれるように一同は進んだ。  巨大な砂丘の陰に隠れる寸前、Dが後方をふり向いた。 「砂嵐が気になるのかい?」  婆さんが訊いた。  もちろん、返事はない。  クレイは用心深げな視線を左右に注いでいた。砂人を警戒してのことだが、口もとに悪戯っぽい笑みを湛えているのはさすがだ。生命のやりとりも、この戦闘士には手軽なお遊びなのだろう。  三時間も進んだろうか。  陽はさらに高くなり、一行の影を黒々と砂に灼きつけた。 「なあ、あんた」  婆さんの代わりに御者台にすわっていたランスが、Dに呼びかけた。  水代だと脅しつけた張本人は、その横でフードを顔の上にかぶせて身体を伸ばしている。中へ入らないのは、タエが気になっているせいだ。  一心不乱に歩きつづける娘を、最初は心配したものの、その足取りの確かさと、余計な邪魔はしない方がいいというDの指示に従い、声ひとつかけない。だが、商品を見守る不安気な表情は固定している。 「どうかしたか?」  Dの返事を耳にしたときは、むしろ婆さんの方が驚いた。  こいつが他人の呼びかけに応じるとは、天地が逆転するのではないか。 「おれと代わって、御者台へ来ない? この方が楽だぜ。陽除けだってあるしよ」 「気にするな」 「でも、よお」 「おれは馴れている。馬に乗ったことはあるのか?」 「少しな。歩かせるくらいはできるぜ」 「おまえの仕事は、荒野を緑に変えることだ」 「それも、自信がなくなってきたよ」 「何故だ?」  二人のやりとりを黙ってきいていた婆さんが、眼の玉をひん剥いた。  Dを知っているものなら、残らず右へならえをしただろう。  Dが——吸血鬼ハンター“D”が、他人のことを知りたがるとは……。 「あんた方、みんな凄い力を持ってるしな。それにくらべておれはただの百姓だ。土地を開墾して植物を植えるしか能がない。それも、いざ砂漠のど真ん中へ来ちまったら、あんたたちの手を借りなきゃあ、自分で自分を助け出すこともできやしない。情けなくなってきたよ。——なあ、おれはいま、二十五だ。ハンターてな、これからでもなれるのかい?」  Dは顔を動かさず、眼だけを横に向けた。 「どうだ?」  問われた先で、クレイは舌打ちした。 「けっ。百姓が気楽になれるくれえなら、この世はハンターでいっぱいだぜ。おめえらにお似合いなのは、お野菜ハンターか養豚ハンターよ」 「それでもいいかなあ」 「けっ」  クレイは唾を吐いた。 「情けねえ野郎だ。それじゃ、ここでおっ死んでも、誰も哀しむ奴はいそうもねえな」 「ああ。親父もおふくろも洪水でいかれちまったしな」  ランスのかたわらで、婆さんが世も末だ、といった表情をつくった。 「どんな植物を植える気だった?」  Dが尋ねた。 「何でもよ。空気と水と陽の光で育つものなら、何でもさ」 「なら、それをやれ」 「そうとも。おめえにはお似合いだ」  クレイが毒づき、 「おれたちにはできない仕事だ」  Dの声をきいて、むっとなった。 「剣はふるえるが、種の播き方は知らん。貴族は殺せるが、野菜ひとつ育てられん。ハンターはいなくても困らんが、食料がなければ人は生きていけんぞ」 「理屈じゃそうだけどよ。ハンターってのは相手をやっつけりゃ感謝されるんだろ? おれたちゃ、いくら土地を緑にしても、ありがたがられたことがねえ。ああ、おれも、もう少し、ダンピール並みに剣でも扱えりゃあなあ」  羨望の声を、笑いの爆発が揺るがした。 「何が、おかしいんだよ」  婆さんは腹を抱えて、 「これが笑わずにいられるかい。ダンピールになりたいなんて人間に、はじめて会ったよ。なるほど、百姓てのは、物を知らないもんだ。あんた、一生種播きがお似合いだよ」 「ダンピールの何処がおかしいんだ? 結構なことじゃねえか」 「その若いのをごらん」  婆さんは凄まじい眼付きでDを見据えた。憎悪すらこもっている眼差しに、ランスばかりかクレイまで驚いた。 「どこからどこまで決まってる。非の打ちようもありゃしない。どんな女だって、いいや、男だってひと目見りゃ、ぼうっと頭に血が昇っちまうさ。けどね、あいつはいま、死ぬ想いで道を歩いてるんだよ」 「……?」 「あんた、川のほとりで魚を釣ったことあるかい? 楽しかったろう? 花を摘んだことも、風が光るのを見たこともあるだろう。誰だってやることさ。あの男には、それができないんだ。陽の光はガス・バーナーみたいに肌を焼く。流れ水に落ちたら、まともに手も動かせなくなっちまう。薔薇の花に触れれば、悲鳴をあげて萎れちまう。光る風? そんなものに吹かれりゃ、皮膚も肉も剥がれちまうよ。ダンピールが人に感謝されるって? ——雇い入れる村がどんな騒ぎになるか知ってて言うのかい。ダンピールが村にいる間は、女子供はまず家から出ない。ひどいところになると、一カ所へ監禁し、用が済むとやっと出てくるんだ。ダンピールに触れた手足は、皮が剥けるまで消毒してこすらなきゃならないし、家畜となったら、その場で殺されるんだよ。そのくらいはまだ我慢できるさ。でもね、ひとつの村にいる間、誰も真正面から自分の顔を見ないとなると、こりゃあ辛いもんだよ」  火を吐くような声を、Dは無言で聴いていた。  ランスもクレイも、唐突な糾弾ともいうべき言葉に、あっけにとられて皺くちゃの顔を見つめている。  それに気づいたか、婆さんははっと我に返った。 「あっあっあ」  と片手で冗談たっぷりに口を押さえる。 「あたしとしたことが、こりゃあ失敬。ね、今のはなかったことにしておくれ。ね、みんな。——いいだろ、D? そんな怖い顔しないで。おや、それが普通の顔かい。ま、いいや、とにかく、気にしないって言っとくれよ」 「………」 「もう、やだよ、年寄りのヒステリーを真に受けちゃ。ね、お願い。ひと言、気にしないって言っとくれ」 「おれは構わん」 「構わんじゃなくて、気にしてないって、さ。——年寄りに免じて、特別サービス」 「気にはしていない」 「ありがとさん!」  婆さんは破顔して片手を上げた。  ランスは何とも言えぬ表情で、Dを見つめている。 「辛えもんだな、ダンピールも、よ」  クレイが珍しく、とりなすように言った。  前方に小高い、砂の山が浮かび上がった。高さは五メートルを越すか。傾斜はなめらかだ。  タエは規則正しい足取りでそこを登りはじめた。  婆さんが馬車のギアをオーバー・ワークに合わせる。  タエとDがまず頂を極めた。つづいて婆さんの馬車。最後にクレイが駆け上がった。  全員の足が止まった。  吹きつける風はなかった。 「なるほど」  と婆さんが感心したように言った。 「これじゃあ、百姓なんか、やる気がなくなるかもしれないねえ」  距離は二百メートルほどだろう。  砂漠は見事な変形を成し遂げていた。  果てしなくつづく砂の海はもうどこにもなかった。  濃い緑が全員の視界を埋め、それは左右にどこまでも延びていた。  冷たいオゾンの香りが全員の鼻孔を打つ。  そびえる木の高さは、優に百メートルを越していそうだった。  この砂漠は、大森林をもって一行を迎えようとしていた。    2  誰もがその正体を想起し、婆さんが代表で唇に乗せた。 「これが『動く森』——奴の罠かね?」 「十中八九、そうだ。ここなら水も手に入るだろう」 「うまい手ぇ使いやがる。こんなオアシス、見たこともねえぜ」  クレイの眼にも感嘆の光がある。  オアシスどころではない。北方の森林地帯でもそうは見つからぬ大森林である。  魔法、というより奇蹟に近い光景であった。 「どうするね?」 「日干しが嫌なら行くしかあるまい。案内役はいる」  Dは二メートルほど手前で立ち尽くしているタエに眼をやった。 「なんとかしておくれよ。早いとこ眼え覚まさせないと、一生、砂漠の言うなりだよ」 「暫定的な処置ではどうにもならん。砂漠自体の根を絶つことだ。だが、今のままでは手の打ちようがない」 「もう。——ダンピールだってのに、頼りない男だね」 「とにかく、行ってみようぜ」  クレイが片手で髪の毛をかき上げた。砂粒が音をたてて落ちる。 「つまらねえ旅はもうこりごりだ。少しは刺激がねえとな」  誰にも異論はなく、他に手もなかった。  タエが歩きはじめた。  止めるものもなく、一行はその後について大森林の中へと歩を進めた。  陰に入ると同時に、全身を冷気が打った。  汗が急速に引いていく。婆さんは身震いした。  ひたすら緑を競う樹木の間を、タエは危なげない足取りで進んでいく。  操られているのは明白であった。  草と土を踏みしめる蹄鉄の音だけを一同は聴いた。  鳥の声も虫の羽音すら絶えている。森の生き物は樹木のみらしかった。 「おい、百姓」  とクレイが呼びかけた。 「えれえところに来ちまったが、おめえ、この木の種類がわかるか?」 「なんとか」 「こいつぁ、頼もしいや」  哄笑が木々の間を流れて消えた。クレイはすぐに口をつぐんだ。 「心理攻撃かね?」  と婆さんが訊いた。 「違うな」  Dはタエから眼を離さず言った。 「これは本物だ。ただ、砂漠の管理下にあるのは間違いない」 「一体全体、あたしたちをどうしようってんだよ?」  毒づいてすぐ、婆さんは顔を上げた。  耳を澄ませるランスが手を叩いた。 「この音は——水だ」 「このくそいまいましい砂漠も、少しは思いやりがあるらしいね」 「我々が死んでは困るだけだ」 「そういう考え方をしてちゃ、ハンターにでもなるしかないやね」  Dは頭上を見上げた。  巨木の枝が折り重なって、分厚い天蓋を形づくっている。  陽光が通らないのに明るいのは、木の表面に付着した螢光菌類のせいであった。 「何かいるな」  クレイがつぶやいた。 「そうだね。気配があるよ。それもたくさん。何処からかわからないけど」 「じきにはっきりするさ」  クレイは右手を竪琴にかけた。  五分ほど進むと、水の音は誰の耳にも明白に響いた。  さらに十分。  忽然と眼の前に滝壷が現れた。  十二、三メートルの高さから白銀の帯が真一文字に落ちている。 「こいつぁいい。ひと泳ぎするぜ」  クレイが呑気なことを言った途端、前方のタエがかくんと膝をついた。  全身の力を抜いて横倒しになる。  婆さんが跳び降り、駆け寄った。 「無事かい?」  と訊きながらランスも地面へ降りた。  Dとクレイだけが、緑を映して青黒い水面を眺めている。 「何もなさそうだな?」  少ししてクレイが言った。  無言でDは岸の縁に馬を進めた。タエとあと二人には眼もくれない。  左手の人さし指を口に当てた。  すぐに離した指の腹には、ぽつん、と赤い玉が浮き上がっていた。  それを下に向け、Dは親指で血玉のすぐ下を押した。  赤い粒がひとつ、岩を打つ|小波《さざなみ》の間に落ち、まばたきする間もなく消えた。  しばらくの間、平穏な水面を見つめ、Dは、 「泳げそうだな」  と言った。  水辺の平坦な場所を選んで、一同はキャンプの準備を整えた。  ランスがタンクの修理を終えたのは、夕暮れどきだった。  ただし、それは森の外での話で、Dたちの周囲は螢光菌類の光に包まれていた。 「これでもう水の心配はないね」  タンクの調子を見ていた婆さんが御者台へ戻って来て、満足そうにうなずいた。  焚火のそばで缶詰の中身を腹へ納めていたクレイが、 「だがよ、結局はその生きてる砂漠に止めを刺さにゃ、ここを出られねえわけだ。早いとこ手を打たにゃあな。——そいつの心臓は何処にある?」 「それがわかりゃ苦労しないよ」  と婆さんが苦々しい声で言いながら、三メートルほど離れた岩にもたれているDを横目で眺めた。 「タエはどうした?」  クレイは周囲を見回した。 「ランスと馬車の中さ」 「またか、危ねえぞ」 「余計な心配はしっこなし。今度はあの男も油断はしないさね」 「次はおれが代わってやるぜ」 「羊を狼の前に出せるかい。おふざけでないよ」 「狼よか、あいつの方が百倍危険だぜ」  クレイは眼で岩陰のDを追った。 「あれは、あんたと育ちが違うよ。ついでに品性もね」 「ダンピールだぜ。いつ血に飢えるかもしれねえ」 「そうなったら運が悪いと思うしかないね」 「勝手にしやがれ」  クレイはばかでかい拳で車体の奥の壁を殴った。 「おい、ちょっと出て来な。話があるんだ」  ランスとタエが揃って顔を出した。 「男の方だよ、用があんのは。——ちょっくら散歩と洒落こもうと思ってね」 「おれとかい」  ランスは眼を丸くした。 「文句があるのか?」 「いや」 「なら、女子供の相手はダンピールにまかせてついて来な」 「乱暴はやめて下さい。この人は私の世話をしてくれただけよ」 「安心しなよ、姐ちゃん。おれはこう見えても、戦闘士の中じゃ、紳士で通ってるんだぜ」  クレイはにんまり笑ってランスに顎をしゃくった。 「D——お婆さん、止めて」 「いいってことよ」  婆さんはウインクした。 「男の喧嘩なんて、こうでもしなきゃ、|決着《けり》がつかないのさ。あんたも、自分のために男同士がやり合うってのはどういうことか、よく考えておおき。それが済んだら、裁縫だよ」 「D」  最後のひと声に望みを託し、タエはそれが叶えられないことを知った。  黒衣の美青年の姿は、どこにも見えなかった。 「その辺を調べに行ったんだろうさ」 「私——探してきます」  タエの声は地上からきこえた。 「お待ち」  岩陰の方へ走り去る小さな背中へ呼びかけ、腰の壷へと手をのばして、婆さんは途中で動きを止めた。 「ま——しゃあないか。年頃だし」  それから、何となく不満そうな二人の男たちへ、 「あんたたち、世界一の阿呆になりたくなけりゃ、いますぐにおやめ」  と言った。  タエは岩のそばまで行って、森の方を見た。  緑の葉の間を、黒衣の影が遠ざかっていく。 「待って」  ひと声かけると同時に、黒い影は森に溶け込んでしまった。  引き返そうか、と思うより、身体が先行した。 「——D」  呼びながら走った。  Dの消えた辺りで立ち止まり、四方を見回した。  左手七、八メートルのところが空き地になっており、Dはほぼ円形のその中心に立っていた。 「D」  駆け寄ろうとするのを、 「隠れろ」  低いが刃のごとき叱咤が止めた。  あわてて、そばの木に身を隠す。  Dは彫像と化している。  タエは眼をこらしたが、周囲には何も見えなかった。  Dだけがわかるのだろうか。  そのとき——  Dの頭上に黒いものが浮いた。  論理的に考えれば、空中から猛スピードで降下してきたものが、激突のショックをゆるめるべく、スピードを落としたのだろうが、タエには出現と見えた。  かすかなきらめきが、娘の心臓を直撃した。 「——D!!」  地上から跳ね上がる銀光が、叫びを喉の奥へと押し戻した。  黒い影は中央から両断され、鈍い音をたてて、Dの足もとに転がった。  それは全裸の人間であった。  ただ、金属らしきものを握った手と足が異常に長い。  蜘蛛を思わせた。  次々に頭上から落下してくる塊が、タエに息を呑ませた。  Dの長剣が閃き、接近した数個が地上へ屍をさらした。  刃の届かぬ距離へ着地した影が三つ、大きく跳ねた。  凄まじいジャンプ力であった。  それだけだった。  手の武器をふり下ろす暇もなく、長剣の描く弧がそいつらを二つに裂いた。  Dは軽やかに移動している。  血の霧が押し寄せ、身体をかすめて地を打った。  いつの間にか——地にわだかまる人蜘蛛の影は、闇を圧している。  一斉にかかればいかにDといえど、瞬時の迎撃は不可能だ。  それを悟ったか、地を這う影が一斉に身を縮め——停止した。  凄愴な鬼気が全員を搦めとったのである。  Dの身体から発する鬼気が。 「戻るか?」  いつもと変わらぬ鋼の声をタエは聴いた。  ざわ、と蜘蛛たちが動いた。  安堵の気配であった。タエは何故かほっとした。  人蜘蛛たちの身体が浮いた。  タエの眼には見えぬ何かで支えられているのか、手足をこすり合わせるようにしながら樹上へと消えていく。  下降に比してスローモーすぎるのは、Dの鬼気が骨身に沁みているせいだろう。  タエは二人だけになったことを知った。  Dがふり向いた。 「——何をしに来た?」  タエはちょっと言葉に詰まり、本来の目的を憶い出した。 「あの——クレイさんとランスさんが喧嘩を——」  言葉は切れた。Dに関心の破片もないと知ったためである。道中の道連れがどうなろうと、彼には無縁のことなのだった。 「冷たい|男《ひと》——」  思わず口に出た。  どんな表情で自分はDを見つめているのか。穏やかな気分を取り戻そうとしたが、漏洩した感情は次々に言葉となって口をついた。 「他人のことなんか、どうだっていいのね。こころの中まで氷と闇でできている人。相手があなたのことをどう思おうと、風みたいに無視できる男よ。ダンピールには貴族の他に人間の血も混じっているというけど、あれは嘘。あなたには、冷たくて暗い貴族の血しか流れていないんだわ?」  叫びだった。  叫びながら、タエは震えていた。身体じゅうの血が逆流し、凍りついていく感覚。  恐怖であった。どのような形であれ、この若者に敵対すれば斬られる。はじめて、タエは吸血鬼ハンターの正体に気づいた。  だが。  戦慄とともに噴き上がるもうひとつの感情にも、タエの意識は釘づけになっていた。  それは嗚咽になった。  タエは身を翻した。涙だけは見られたくなかった。  かたわらの樹に身をもたせかけ、タエはすすり泣いた。 「グラディニアの城で何があった?」  近づく気配はなく、声だけが訊いた。 「来ないで。——帰ってちょうだい。ひとりにしておいて」 「ここは危険な土地だ。いまの奴らもまだあきらめはすまい。気が済むまで泣いたら一緒に戻れ」 「馬鹿!」  タエはふり向いた。  眼の前に黒く、たくましい壁が立ち塞がっていた。 「馬鹿、馬鹿、馬鹿」  同じ言葉を繰り返しながら、タエは両手を打ちつけた。石を殴ったような手応えが伝わってきた。 「あなたなら、と思ったのに。あなたみたいな男がダンピールならと、私、うれしかったのに」 「腹の子は、どちらの貴族の子だ?」  タエの動きが止まった。  血が凍り、心臓すらも停止したかと思われた。  タエは眼を閉じようとした。瞼はぴくりとも動かない。  声だけが、奇妙なくらい、あっさりと出た。 「何のこと?」 「君は妊娠している。どちらの貴族の子だ?」  タエはもう何も感じなかった。 「知らないわ」 「奴[#「奴」に傍点]か?」  それだけで、タエにはわかった。  闇の奥から、赤い炎を点した眼が迫ってくる。 「奴か?」  Dがもう一度訊いた。 「どうしようもなかったのよ」  老婆のような声だと、タエは思った。 「私に何ができて? あいつらは指一本で私を殺せるのよ。言うことをきくしかなかったわ」 「いつ、気がついた?」 「城にいるときから。——ねえ、生まれる月がわかる? 普通なら十カ月と十日だそうだけれど」 「普通ならな。その子の場合は、兆候に気づいてから約半年後」  眼に見えぬ何かから遠ざかるように、タエは後ろへ下がった。 「その子の場合って、どういうこと?」 「奴の子ならば、その子は普通のダンピールにはならん」 「どうなるというの?」 「戻ろう」 「いやよ。教えて。どうなるというの? まさか——まさか……」  最後のまさか[#「まさか」に傍点]に、タエは恐怖だけをこめようとした。何かが膨れ上がってきた。意識するまいとして、タエはその虜になった。  哀しくも妖しい歓喜だった。 「……あなたと同じ……」  額に冷たいものが触れた。  Dの左手だと気づく前に、タエの意識は暗黒と同化した。 「面白いが酷い話じゃのお」  崩れる娘の身体を支えながら、Dの左手がつぶやいた。 「この娘、どんな道を辿るのか。——それより、今の奴ら、水辺にいるときから、おまえの様子を窺っておったぞ。だから誘ったのじゃろうが」 「テストだろうな、おれの」 「能力調べか。——何のために?」 「わからんのか?」 「いいや」  声は笑いを帯びた。邪気のある笑いだった。 「そういうおまえもわかっておるくせに。この砂漠は、昔なつかしい匂いがするぞい」  Dはタエを左の肩に乗せた。 「どこでどう狂ったのか」  と、声はつづけた。 「前に出会った女が言っておったな。どうして、とてもいいことが悪いようになってしまうのか、と」 「いいことだと思うか?」 「わからん」  Dは歩きはじめた。  声はもうしなかった。    3  タエを肩にDが戻ってくると、男たちの喧嘩は終了していた。  滝壷の縁に、ランスが長々と伸びている。大の字であった。顔は倍くらいに腫れ上がり、鼻は少し曲がっている。  熱さましのハンカチを洗っていた婆さんが気配に気づき、走り寄ってきた。 「無事だ。おれが眠らせておいた。十分で眼が覚める」  黒い肩が軽く上下し、宙をとんだタエの身体を、老婆はあわてて受け止めた。  Dはちらりとランスを見て、 「勝ったな」  と言った。 「よく、おわかりだね」  婆さんはにやりと笑った。 「クレイの馬鹿はそっちの繁みん中で伸びてるよ。この百姓——なかなかやるよ。でも、あいつもいいところがある。最後まで素手でやりあったんだ」 「みな、馬車の中へ入れ。おれが番をする」  Dは滝の流れに眼を向けたまま言った。 「こいつらも、かい?」 「嫌なら外で眠らせろ」 「そうするわ。——後はよろしくね」  両手にタエを抱きかかえた婆さんが、ふらふらと馬車の方へ歩き出すと、すぐ、ランスが起き上がった。無惨な顔である。 「その娘——無事かい?」 「余計な心配するんじゃないよ、役立たず。能無しがいっちょまえに喧嘩なんぞして、顔を腫らせやがって。断っとくが、明日は休ませて下さいなんつっても、承知しないよ」  婆さんとタエが馬車に消えても、悪罵は空中に残っていた。 「あいつに勝ったそうだな」  ランスは顔を上げ、妙な表情でDを見つめた。  こんな言葉をかけられるのが、信じられないのだ。 「——昔は悪餓鬼でな。それに、素手なら百姓に勝てっこないさ。村へはよくハンターや戦闘士が来て、格闘技も教わったよ」 「奴も相手が悪かった」  Dは、婆さんの言った繁みの方を向いた。  のろのろと黒い影の頭部がせり上がってきた。 「原因はあの娘か?」 「そうだ」 「本気でやりあったな?」 「仕方がない。黙ってやられているわけにはいかないさ」 「喜ぶかもしれんぞ」 「誰がだい?」 「他人のために顔を倍に腫らせる男はざらにいない。あの娘も会うのははじめてだろう。教えてやれ」 「よしてくれ。そんなつもりはなかったよ」  ランスはため息をついた。  その前に黒い手が差し出され、百姓の若者の眼を丸くさせた。  その手首を掴み、ランスは立ち上がった。 「そこにいやがったのか、百姓」  巨体が危なっかしい足取りで近づいてきた。白い光に照らし出された顔は、ランスの倍近く腫れている。 「二回戦といこうじゃねえか。嫌だとは言わせねえぞ」 「後にしてくれ」  ランスは何故か微笑して言った。 「うるせえ」  クレイが掴みかかった腕を、もう一本の黒い手が押さえた。 「何しやがる。離せ」 「離してやってくれ、D」  ランスが、首の後ろを揉みほぐしながら言った。 「徹底的にやったつもりだが、あきらめがつかないんじゃ仕様がない。——いいか、おれが勝ったら、あの娘に一切手は出さんと、もう一度誓え」 「ああ、いいとも、吸血鬼ハンター“D”が証人さ」  黒い長身が離れた。  何か叫びつつ、クレイが殴りかかった。  足がもつれていた。  身を屈めたランスの上を風の唸りがすぎ、彼は頭からクレイの腹に突進した。  うおお。  爆発を思わせる咆哮とともに、巨漢は軽々と宙をとび、今までランスが横たわっていた水辺に背中から落ちた。  地面が鳴動した。  ランスが跳躍し、呻く鳩尾に肘と体重を叩き込んだ。  クレイの口から、水みたいなものが噴き上がり、全身が痙攣して、戦いは終わった。 「三回戦はあるまい」  Dの声に、ランスはうなずいた。クレイはぴくりともしない。  ランスは立ち上がり、敗者の顔をのぞきこんだ。  みるみるうちに、先刻の微笑が顔中を染めた。  クレイの悪相は苦痛に歪み、そのくせ、まぎれもない笑みが刻まれているのだった。  二時間が過ぎた。  菌類の活動もバイオリズムに従うのか、闇は深い青を湛えて、水辺の一群を包んだ。  焚火のかたわらに鞍を置き、頭を乗せて、Dが横たわっている。  急に顔の腫れた男たちは、二メートルほど離れた場所で毛布をかぶっていた。  月光が届くなら、その降り落ちる音さえ聴こえてきそうな静けさであった。  先刻の人蜘蛛の件は誰にも明かさず、Dは眼を閉じている。  狙われているのは自分ひとりだと見なしているのか、この場を襲われても切り抜ける自信があるのか、そこにいるだけで優美な寝姿に緊張の気配はない。  車のドアが音もなく開いた。  婆さんが現れた。  御者台の上で背を丸め、すぐ下のDに声をかけようとした。 「眠っておけ」  錆を含んだ声が|先《せん》を取った。かすか、とも言えないドアのきしみを感じ取ったのであろう。 「眠れないのさ」  よっこらしょ、と大儀そうにつぶやき、バイパー婆さんは車を降りて、のこのことDの方へやってきた。腰の壷が揺れている。  普通の老婆より精悍な印象はあるが、その歩き方、顔の皺、しょぼしょぼした眼つき——絢爛たる踊り子が楽屋で化粧を落としてさらけ出した素顔のようなイメージであった。  この老婆も、呉服屋を開きたいと痛切に思う晩があるのだろう。  Dの背後に来て座った。 「やるかい?」  端整な顔の横に酒瓶が突き出された。宿場町の雑貨屋に山積みされてある安物の果実酒だ。 「いらん」  にべもないDの言葉だが、不思議と相手を怒らせるような感じはない。 「そうかい。——相手を間違えたよ」  婆さんは栓を抜き、一気にあおった。  喉が三度ほど上下し、瓶を離すと、手の甲で唇を拭った。長い吐息。 「昼間、あんたに言ったことだけどさ。——気にしないでおくれな。あたしばかりじゃない。聞いたら、タエもひどいこと言ったそうじゃないか。この通りだ。勘弁しておくれ」 「気にするな」 「そうかい」  婆さんは子供のような表情で破顔した。 「ああ、ありがたい。あんたがそんな根性の小さい男だとは思ってなかったけど、やっと安心したよ。先はまだ長い。よろしく頼むわ」 「寝るがいい」 「そうつれなくしなさんな」  婆さんは両手で膝を抱え、小波の絶えぬ水面を見つめた。 「知ってるんだろ、あんた?」  こう訊いたのは、少し経ってからである。 「あの娘——妊娠してるのさ。多分——貴族の子だ。始末がつけられなきゃあ、遅かれ早かれ、生まにゃなるまいね」  Dは無言で眼を閉じている。その脳裡をどんな想いが去来しているのかは、誰ひとりわからない。 「どうする気だ?」  ぽつんと訊いた。 「おや。——人の運命に関心が持てるのかい?——もちろん、連れて行くさ。それが仕事だからね」 「なら、わざわざそんな話をすることはあるまい」 「たまには変わったことをしたくなるときがあるのさ。あんただって、思うさま、陽の光を浴びてみたくなるだろう」 「故郷へ帰っても歓迎はされまい」  Dはタエの話に戻った。 「まして、貴族の子を生むとなれば、隠してもおけん。あの娘が強いからといって、解決できる問題ではなかろう」 「連れて行くなってことかい?」  婆さんの声に反発がこもった。 「それだけはできないよ。何度も言うが、これがあたしの仕事なんだ。後のことはどうなろうと、最初はみな[#「最初はみな」に傍点]、喜んでくれるし、銭にもなる。それからのことは——よそうや。また、同じことの繰り返しだ。あたしの所信表明演説を聴いたって、面白くもなんともなかろう」 「裁縫の腕はどうだ?」 「あっちの方は才能がありそうだよ。さっきも、ガタガタやってた。何を縫ってるのかは知らないけれど。——ねえ、子供はどうなるんだろうか? やっぱり、ダンピールかい?」 「貴族の子なら」 「いっそのこと、あんた面倒見てやったらどうだね? 同じダンピールだ。一から教えてやれるだろ。なんてったって、吸血鬼ハンター“D”だ。女ひとり子ひとりぐらい食わせていけるよ。ね? あんたぐらいになりゃ、ハンターにならなくてもダンピールが生きていける方法を、身につけてるんじゃないの」 「そう思うか?」 「思うよ」 「なら、おれは何故、ハンターをしている?」  婆さんは重々しくうなずいた。待ってました、という風に。 「あんた、ぶきっちょなだけさ。普通の人間の中へ入って、のんびり暮らすなんてプライドが許さないんだよ。貴族の血なんて厄介なもんさ。いくら節を曲げ、世の中に迎合しようったって、自分がそれを許さない。何とかなるには、ま、百年もかかるだろうかね」 「どうして百年だ?」 「そのくらい苦労すりゃ、貴族も丸くなるだろうって話さ。もっとも、あんたは保証の限りじゃないが」 「何故そう思う?」  婆さんはじっとDを見つめた。 「あんた、何かを追い求めているね」  何気ない言葉に、鋼の強靭さがあった。 「人はハンター、ハンターってもてはやすけど、あたしに言わせりゃ、実体はただ腕っぷしが強いだけの性格破綻者さ。誰も、どうやってうまく殺すか——それにしか興味がない。ひどい奴になると、殺すだけが目的になって、堅気の人間にまで手を出し、別のハンターに殺られた奴までいる。試しにそいつらの夢を覗いてみな。みんな真っ暗か真っ赤。頭ん中からは、揃って、ひとつだけ単語が抜けてる。何だと思う?」 「何だ?」 「“明日”」  婆さんは静かな自信をこめて言った。 「あんたにはそれがあるよ。なあに、本人がそう思ってなくとも構やしない。本当は“明日”って単語じゃなくてもいいんだ。“夢”“希望”“虹”それに——“愛”。笑わないどくれよ。最初から縁のない奴と、それを求めているものとは、えらい差がつくってことさ。ただ、あんたの場合は、もっと別の何かだって気がする」 「何だと思うか?」  Dが訊いた。 「わからない。あたしには想像もつかないよ。でも、探し求めるものがあるには違いないさ。それを、タエの子供に教えてやることだってできるだろう」 「………」 「そうしておやり。なに、故郷へ連れ戻したら、もう、あたしに用はない。ひっさらって逃げちまやいいのさ。あの娘なら、旅から旅の生活にも耐えられる。子供が大きくなって、定住したくなったら、あんたはまたひとりに戻ればいい。もちろん、ちゃんと“教育”を終えてね」 「残念だが、おれより適役がいる」 「ん?」  眉をひそめ、婆さんはふり向いた。  離れたところに盛り上がった毛布の中から、ランスがこちらを眺めていた。 「よしとくれ。ただの百姓にダンピールが扱えるもんか。自分が狙われて、夜逃げするのが関の山さ。実の親だって、貴族の血には勝てないんだ」  きこえよがしの侮蔑が耳に入ったのかどうか、ランスは毛布を脱け出し、のろのろと焚火のそばへやってきた。 「話はきいたよ」  炎を見つめながら言った。 「余計なことを」  婆さんが毒づいた。 「D——あんた、知っててきかせてたね」  無論、Dは沈黙を守った。 「おれには、よくわからねえが」  と、ランスは疲れたような声で言った。 「何となく、やっていけそうな気がするんだ」 「何をだよ!?」  婆さんが血相を変えた。 「いや、その——あの娘と一緒に暮らしてだな」  ランスは赤くなった。 「寝言は寝てからお言い。言うに事欠いて、百姓の小倅が」 「あの娘の実家は何だ?」  Dが訊いた。 「百姓だよ」  婆さんは憮然として言った。 「なら、おかしな組み合わせではあるまい」 「そうともよ」  ランスが同調した。 「子供のことならまかせとけ。いちばん性に合った生き方を見つける手伝いをするよ」 「そんなに世の中、甘かあないよ」  婆さんは断言した。 「ダンピールってのはね、男も女も美男美女が多い。赤ん坊や幼児のころときたら、まるっきり天使さ。ダンピールと知って、言い寄る奴らだって山ほどいる。ところが、いざ、貴族の血が目覚めたとなると、うんとこさ甘い言葉で近づいて来た奴らが、真っ先に逃亡しちまうんだ。残されたものは、どうすりゃあいいのさ。おまえだって、必ずそうなる。調子のいいことを言うんじゃないよ」 「いいこと言うぜ、くそ婆ぁ」  もうひとつ——凶悪そのものの声がした。  ランスと婆さんがふり向き、こちらへやってくるクレイを認めた。憎悪に満ちた眼がランスを見据えて、 「あの娘はな、おめえみてえな百姓にゃ勿体ねえ。この旅が終わるまでに、どうせおめえはおっ死ぬんだ。そうしたら、あの娘が誰になびこうが自由だぜ」 「あんたになびくとお思いかい?」  婆さんにきつい眼で睨まれ、クレイはそっぽを向いた。 「鏡に相談おし」  と罵ってから、婆さんはクレイの腰に眼をやった。 「あんた、その武器は殺し専用かい?」 「ふざけるな」  戦闘士は獣の唸りをあげた。右手が腰をかすめ、優雅な音が鳴った。  武器はその形状通りの使い方もできるらしかった。 「こいつぁよ、貴族のひとりを殺して、そいつの音楽堂から手に入れたのさ。見なよ、弦は銀、本体は黄金だ。おまえたちが聴いたこともねえ天上の音楽を奏でられるんだぜ」 「一曲おやりよ」 「あン?」 「何、チンケな|表情《かお》してるのさ。せっかく、みんなの眼が冴えてるんだ。胸にぐっとくる曲を聴かせてもらおうじゃないか。できなきゃ、子守唄でもいいよ」  クレイは鼻を鳴らした。 「へっ。気の毒だがな。こりゃ、そんな詰まらねえ役に立てるための道具じゃねえんだ。おれさまの生命を守るお宝を、おめえらごときのために使えるかい」 「あの娘のためでもいやか?」  Dの声であった。  クレイだけではなく、全員が車の方をふり向いた。  御者台に小さな影がうずくまっていた。  様々な思いをこめて自分を見つめる視線から、タエはそっと眼をそらして俯いた。 「ねえ、あんたも一曲聴きたいだろ?」  婆さんの声に、白い顔がこくりとうなずいた。 「どうする?」  Dが訊いた。驚くべきことだが、からかうような調子がある。  クレイはなおも渋った。 「へえ、そうかい。辺境一の戦闘士が、女の子の頼みを断るのかい? へっ、人は殺せても、娘っこひとり喜ばせられないとは、近頃の男も地に堕ちたもんだよ」 「吐かしやがったな」  クレイが歯ぎしりした。憤怒で全身が揺れた。超音波を暴発させても不思議ではなかった。 「てめえらの腐れ耳にゃあ勿体ねえが、とっておきのを一曲聴かせてやらあ。美声に聴き惚れて、滝壷に跳び込むんじゃねえぞ」  婆さんとランスが、ひょお、と叫んで手を叩いた。  クレイの武骨な指が弦にかかる。  白い闇が音を生んだかのようであった。  婆さんのにやにや笑いが消えた。  それは、辺境に生きる男と女の歌だった。  男が旅し、女がそれを追う。そして、男も女も疲れ、ついに出会うこともなく、おのおのの生活の中へ埋没していく。  長い平穏な日々。だが、ある日、女はふと昔の恋人のことを憶い出し、すべてを投げ出して男を追う。  クレイの声は高く低く地を流れ、宙を舞い、婆さんの眼を剥かせた。  その声量の豊かさ。その音程の確かさ。戦闘士は見事に、|吟遊詩人《トルバドゥール》に変わっていた。  疲れきった女を冷たい土の中に埋めてから、クレイは祈りの言葉とともに、竪琴の上の指を止めた。  拍手はいちばん遠くから、いちばん早くやって来た。  打ち鳴らされる白く細い手を、男たちは無言で見つめ、娘が涙を流していることを知った。 「やるもんだねえ」  と婆さんが感極まったように言った。 「わかったか、くそ婆ぁに百姓」  クレイは憎々しげに周囲を睥睨し、タエに向かって分厚い胸をそらせた。 「どうだい。大したもんだろう。顔しか取り柄はねえどっかのハンターとは格が違うぜ。え、男を見る眼があったら、どいつが一番か、一発で見分けがつくってもんだぜ。どうだい、故郷へなんぞ帰らず——おっと、この百姓が生きてる限り、あんたを口説くわけにゃいかねえんだ。ま、悪く思わないでくれ」  言うだけ言うと、さっさと毛布のところへ戻り、ひっかぶって寝てしまった。  婆さんとランスが顔を見合わせ、苦笑する。  タエも笑っていた。  人間、意外なところに使い途があるものだ。  しばらくの間、誰も動かず、何も言わなかった。 「眠ったらどうだ?」  と、Dが言った。 「そうするかね」  婆さんは立ち上がった。 「おまえも寝な」  と、ランスに声をかける。不思議と穏やかである。  ランスは動かない。婆さんはじろりと見たきりで、何も言わず御者台へ上がった。 「|内部《なか》へお入り」  とタエに言う。  タエは動かなかった。  婆さんの眉が寄った。青すじがこめかみに浮いた。  ふっ、と軽い息を婆さんは吐いた。  凄い眼つきでランスを睨み、背を丸めて車の中へ消えた。  膝の上に両手をきちんと置き、タエは前方を見つめていた。  焚火のそばに腰を下ろし、両手で膝を抱きながら、ランスも前方を見つめていた。  タエはランスを。ランスはタエを。  積んだ薪が崩れたらしく、炎が大きく揺れて、火の粉を噴いた。  ランスの手が握りしめられ、小刻みに震えた。 「おれ……」  とつぶやく。別人の声のようであった。その次に何が来るのか。炎は燃え、タエはじっと武骨な若者を見つめていた。 「野郎……」  毛布の下で、どす黒い声が呻いた。  クレイの手が竪琴へと移動し、急に止まった。  白く細いものが、手と琴の間を貫き、毛布を地面に縫いつけていたのである。  鋭く研ぎ澄まされた先端を見るまでもなく、白木の針であった。  怒りと戦慄に骨まで震わせながら、クレイは、投じた犯人の、鋼のような声を聴いた。 「人間とダンピール——先のことは誰にもわからん」  ランスがはっとしたように、Dをふり返った。  自分が言いあぐねていたことを、Dの言葉にきき取ったのである。  一緒に暮らしたい。  素朴頑丈な顔に、痛ましいほどの決意の色を浮かべると、彼は車の方へ歩き出した。  Dの双眸が光った。  水面と小波。  黒い闇と化して、ハンターは跳ね起きた。  鋭い飛翔音が空を切り、飛来したものが彼の周囲で黒い血をふり撒いた。  かたわらで苦鳴が湧いた。  Dがふり向いた眼の前で、ランスの胸は黒い槍のようなものに刺し通されていた。  槍の柄は沼へ向かって伸び、緩やかで不気味な放物線を描きつつ、水中の一点に没していた。  それは、鋼鉄の先端を有する触手に違いなかった。 [#改ページ] 第六章 崩壊の調べ    1 「ランス!」  二つの声が同じ名を呼んだ。  御者台から跳び下りたタエであり、串刺しの毛布を撥ね退けて立ち上がったクレイであった。  Dに切断された数本は、うねくりつつ後退し、しかし、水面から新たな触手が、Dを、タエを、クレイをめがけて伸びてくる。  恐怖さえ忘れてランスに駆け寄ったタエの身体を、串刺しにした触手が巻いた。  ワイヤー・ロープで締めつけられる激痛が襲い、タエは|呼吸《いき》もできず、悲鳴も出せなかった。  ぐい、と沼へ引かれた途端、黒い影が疾風のごとく吹きつけ、触手を切り離した。  ひゅん ひゅん ひゅん  なおも空気を灼きつつ、触手は一同を襲う。 「馬車へ入れ」  ランスに肩を貸し、Dはタエを押した。  ランスが痙攣した。  胸を貫いた触手が、切断されながらも激しくしなったのだ。再び|白刃《はくじん》がきらめき、穂先の部分から下を切り離されて、触手の動きはやんだ。 「耳を押さえて伏せろ!」  クレイが叫んだ。  一瞬の間を置き——  世にも美しい旋律が夜気に満ちた。  見よ。飛来する悪魔の手はことごとく空中で崩れ、ぼろぼろの破片と化して、地上へ到達することもなく消えていく。  そればかりか、滝壷の岩も、対岸の木々も、いや、白い帯となって落下する水までが、分子の結合を奪われ、その姿を消した。  堪りかねたか、わずかに残った部分は水中に引き込まれ、新たな攻撃は絶えた。  恐るべし、クレイの琴。  死の音波が極めて狭隘な殺戮範囲に留まるならば——いや、それでも指向性を持つこと自体恐ろしいが——疾風の速度を持つ魔人ならかわすことも可能だろう。  しかし、戦闘士の指一本、そのひと触れによって、死のメロディは可聴範囲すべてに及ぶ。  いかなる硬質の物体も原子に分解しさる超音波が、扇のごとく広がりつつ押し寄せるとき、誰がこれを防ぎ得るか。 「何事だい!?」  飛び出てきた婆さんにタエとランスを渡し、Dは馬に跳び乗った。クレイも後につづく。 「森を抜ける。ついてこい!」  声のみ残して、Dは疾走した。  ごお、と風が唸り、次の瞬間、奇怪な現象が発生した。  周囲のかがやきが、急速に失せたのである。菌類の放つ光もコントロールされていたのだ!  もと来た通路をはずし、Dは森へ突入した。土埃を巻き上げて、馬車とクレイが追う。 「D——何処へ行くのさ!?」  御者台で婆さんが金切り声を張り上げるのへ、 「来るぞ!」  クレイの叫びが重なった。  全面確認鏡を覗き、婆さんは総毛立った。  再び、水面をざわめかせて、触手が立ち上がったのだ。  おびただしいその数は、一本の巨木のように見えた。  全員の視界から、あらゆる輪郭が奪われていった。  闇が世界を制覇しつつある。 「見えねえぞ、畜生!」  クレイが怒号した。 「タエ——照明虫をお出し!」  数秒後、眩い円光が、車の後部窓と周囲を青く染めた。  それでも、光は先頭をゆくDの後ろ姿はおろか、車体の中ほどまでも届かない。  真の暗黒の中で、Dには脱出路がわかるのか?  ダンピールの超感覚であった。  頭上を、聴き取れぬほどの音が伝わっていくのに、Dは気づいていた。  音もなく、それが降下に移る。  Dの頭部へ刃をふり下ろす暇もなく、人蜘蛛の身体は胴から両断された。  刀身は弧を描き、左右から襲わんとした何名かが、声もなく即死させられ、吹っ飛んだ。 「上から来るぞ!」  Dの声に火薬銃の轟きと火線が加わり、車から重いものが跳ね飛ばされる気配があった。タイヤのあたりで嫌な音が響き、耳を覆いたくなる悲鳴が上がった。  クレイへの道標に、後部窓から光を吐く照明虫を突き出していたタエの手を、突然、頭上から虫みたいに長い指が掴んだ。悲鳴を上げて引いても、指は鉄のように固い。  照明虫が落ちた。  雷鳴が車内を揺らす。  天井をぶち抜いた鉄塊は、人蜘蛛の腹を裂いて、暗黒へ放り出した。 「ランス!」  赤く腫れ上がった手の痛みも忘れ、タエは火薬銃を片手にした若者にすがりついた。  血にまみれた上半身の上で、蒼白の顔が微笑した。 「無事だったか?」 「ええ」 「心配……するな。いつでも、守ってあげるよ……」 「信じてるわ」  タエの眼から涙がこぼれた。  そのとき—— 「出口だ!」  婆さんの歓喜の叫びが遠く聞こえた。  仄白い光が世界を包んだ。  Dが——つづいて、巨大な生物がジャンプでもするような勢いで、馬車は月光の下に躍り出た。  馬の足と車輪が砂にめりこんだ。 「イヤッホー! 抜けたよ!」  婆さんが御者台の床を片手で叩いた。残る一方の手で手綱を絞り、制動をかけようとする。 「走れ!」  五メートルほど前方から、どうやって出すのかわからない低い声が漂ってきた。 「ど、ど——」  どうしてだい? と訊く前に、車内から凄絶な悲鳴が上がった。 「タエ!?」  ドアが開いて、娘が跳び出てきた。手と胸は鮮血で紅い。 「どうした!?」 「森が——森が!」 「森!?」  婆さんの顔が、驚天動地の相を浮かべた。  森が遠ざからないのだ。  いや——迫ってくる。森全体が、途方もなく巨大な波のように。 「——D、これも幻かい!?」 「いや。本物だ」  並んだDが言った。 「そうかい」  婆さんがにやりと笑った。 「なら、あたしにも|殺《ばら》せるわけだ」  手綱を左手に持ち替え、婆さんの右手は腰の壷にかかった。  砂漠で、押し寄せる砂人たちを一瞬のうちに葬り去った魔技。——壷の中の砂は、どのような絵を大地に描くのか?  両膝を大きく開くと、婆さんは壷中に差し込んだ手を抜いた。  握りしめた拳の下から、さらさらと美しい色の流れが床上に広がっていく。  婆さんの手は小刻みに震えていた。  砂を握った五指が、どのような異次元の儀式を挙行しているのか。糸のように切れ目なく流れる砂は、車の振動にも無関係に、いや、振動に合わせて、何やら茫とした、しかし、明らかにこの世界に存在すると思しき形を、老婆の足もとに描き出していった。  それは、いま、二人の背後に迫る動く森であった。  婆さんの手が静止した。完成したのだ。次は——?  背中でドアが開いたのは、そのときだ。 「お婆さん——」  タエは蒼白であった。 「クレイが森の中に置き去りに——」  婆さんはふり向いた。 「一体、どうしたのさ!?」 「私——照明虫を落としてしまったんです。いつの間にか、足音が聞こえなくなって……」 「糞ったれ!」  婆さんは歯がみした。  森の端は、もう二十メートル足らずのところに迫っている。 「クレイの奴——死んだかね?」  婆さんはDに叫んだ。 「わからん」 「死んだよね。きっと」 「いや」  Dはふり向いていた。  婆さんも後を追い、呼吸を止めた。  あえかな音を耳にしたかもしれない。  究間なく林立する樹々の壁の一カ所に、ぽっと黒点が浮かぶや、それを突き破って、騎影がひとつ躍り出たのである。  鮮やかに砂を蹴って追いすがる。  月光の下でクレイは舌舐めずりしていた。  と——  戦闘士の身体は大きく前へのめったのである。  馬が足をとられたのだ。  砂埃をあげてつんのめった獣の頭上を、クレイの身体は岩のように丸く跳んだ。  地上へは足から落ちた。  そのまますっくと立ち上がったのは、見事な体術としか言いようがない。  だが、背後の森は賞讃を与える代わりに音もなく迫ってくる。  サイボーグ馬へ駆け寄る暇はなかった。  クレイの右手には竪琴が握られていた。  しかし、いかに広範囲に死の音を飛ばす武器とはいえ、幅数キロの大森林に——。  弦が鳴った。  消滅した樹々は数百本に達したであろう。  それだけだ。  頭上からのしかかる巨木の群れを、クレイは茫然と見つめた。  この絶望のさなかで、背後の足音を聴きつけたのは、辺境一の戦闘士ゆえであったろう。  鉄蹄の音だと気づくより早く、彼は身を躍らせた。  相手の距離も、速度もわからない。鍛え抜いた勘が頼りだ。  そして、それ[#「それ」に傍点]は、彼の巨体を、急停止して方向を転じた刹那のDの馬の尻へ、見事に乗せたのである。  クレイのもとの位置を、森の影が呑みこんだとき、サイボーグ馬は十メートル先を疾走していた。 「また借りができたな」  クレイが歯を剥いた。憎悪の呻きだった。 「礼は婆さんに言え」 「あン?」 「助けに行ってくれと喚かれた」 「けっ。だらしのねえ野郎だ」  数秒で、馬は馬車と並んだ。 「森がスピードを上げたよ!」  婆さんの声が二人を迎えた。 「逃げられねえぞ」  クレイが歯ぎしりした。  次の瞬間、彼は両眼を剥いた。  馬車が急制動をかけたのである。  同時に、Dもまた停止する。 「な、何のつもりだ!?」  口から泡を飛ばすクレイの横で、婆さんがにっと笑った。 「見ておいで。あたしの術を」  婆さんの足の下に、奇怪な砂絵は健在であった。  月光の下で、大した|大きさ《スケール》でもないそれを、クレイの眼は鮮明に識別した。  眉をひそめ、彼は背後——迫り来る大森林を見た。  それであった。  婆さんの足もとに浮かび上がった絵柄は、月と砂漠と森——いま、彼らを呑み込まんと迫る大森林そのものであった。  クレイは逃げることも忘れた。  どうあがいても勝てる見込みはない。——そうと知れば、後をも見ずに遁走する。それがクレイのやり方である。無益な戦闘を回避してきたからこそ、彼ら兄弟の名声も生命も永らえているのだ。  いま、最も強烈な人間の生存本能——それさえも抑えて、クレイは老婆の術を眼のあたりにしたいという、凄まじい欲求の嵐にあおられたのである。  音もなく、頭上の星々を山のような影が覆った。  押し寄せる巨木の連なりは魔獣のようであった。  常人のそれより遥かに広い視野のうちに、クレイは二つの出来事を捉えていた。  婆さんと——森と。  婆さんが大きく上体をそらせた。  薄い胸が倍近く膨らむ。空気を吸い込んだのだ。  そして——  たわめた火龍の骨が撥ね戻るごとき勢いで、老婆の上体は前屈し、突き出した唇が御者台めがけて勢いよく空気を吐き出したのである。  絢爛たる色を月光に散らせて、砂絵は吹き飛び、クレイの唇から驚愕の叫びが洩れた。  圧倒的な質量を先兵にのしかかってきた大いなる森が、突如、眩いばかりの色彩を帯びるや、次の瞬間、忽然と消滅してしまったのだ。  烈風に吹き散らされた塵のように。  茫然と馬の背にまたがるクレイと、Dの周囲に、キラキラとかがやく光の粒が落ちてきた。  それが婆さんの撒いた砂だと知りながら、クレイには手に取る力もなかった。  砂漠は、月明かりの下に平坦な連なりを広げている。  何もかも夢のようであった。 「あーあ」  御者台の上で、婆さんが腰を叩いていた。疲れたような声に似つかわしく、その顔は妙にどす黒い。 「年甲斐もなく、しんどい真似をしちまったよ。ひと休みしてっていいだろ、D?」 「その馬車は自動操縦装置がついていたな」 「なんて冷たい男だろうね。死にかけた婆さまを、この上ガタゴト揺らせる気かい? うちのは調子が悪くてね。ほっときゃ、どこへ行くかわかりゃしないんだよ」 「あの森は、おれたちの力を試すためのサンプルだ。砂漠はそれほどの痛手を受けていない。また、攻撃してくるぞ」 「わかったよ」  事態の把握は的確らしく、渋々ながら婆さんがうなずいたとき、車内からタエが姿を見せた。  腫れぼったい眼をしていた。  不吉な伝言を伝えに来た妖精そっくりに見えた。 「……どうしたね?」  婆さんが訊いた。 「ランスが亡くなったわ」  と、タエはしっかりした声で言った。    2  小さな砂の山ができるまで、三十分とかからなかった。  全員がその周りに輪をつくり、Dが車に積んであったスチール・パイプを砂の山の真ん中に立てた。 「おかしな形の墓だねえ」  と婆さんが、いぶかしげに言った。  金属の棒は、その中央よりやや上部でもっと短い棒と組み合わされ、紐で固く結ばれていた。  それを手にしたDの表情の変化を、誰も気づかない。  苦痛の翳に。  手のひらには、パイプの形が青痣となって灼きついていた。 「こんな形、はじめて見たよ」  と婆さんは遠い眼つきで繰り返した。 「いや、どっか、ずっと遥かな国で、ずっとずうっと昔に見たような気もするね……何だい、一体? 貴族の墓かね?」  Dは小さく、はっきりと首を横にふった。 「さてと、誰がお祈りの言葉を唱えるね?」  婆さんが腰に手をあてて訊いた。 「あたしゃ、これが苦手でね。亭主が死んだときも口にしなかった。辛気臭くっていけない。誰かやっとくれ」 「知らねえんだ」  クレイが肩をすくめた。それから、じっと墓標を見つめて、 「阿呆が。雪辱戦の前に逝っちまいやがって。おれたちが離れて五分もたちゃ、誰にもこの場所はわからねえんだぞ」  彼は忌々しげに唾を吐いた。  婆さんはDを見て、 「ダンピールが葬いの祈りを知ってるなんてはずもないしね。——さあて、どうするか」 「私が」  申し出たのはタエであった。 「ほうほう——肝心なのを忘れてたね。いいだろう。あの男はおまえにご執心だった。最高の供養になるさ」  婆さんの口調には、こころがこもっていた。  本当なら、Dの提案のごとく、ここは引き揚げた方がいい。一刻も早く、砂漠の端へ辿り着くことが先決であった。  そうしようとは、誰も言わなかった。  Dがランスの身体を車から運び、クレイが穴を掘ったのである。その間、タエと老婆は男たちから一時も眼を離さなかった。それだけが、自分にできることだという風に。  タエは二歩、墓標に近づき、両手で肩を抱いた。声はわずかにかすれていた。   我ら、愛しきものを送らん   汝が国の平穏の|廟《みたまや》に   汝がやさしき|腕《かいな》の夢に  詩句は途切れた。  タエは憶い出そうと眼を細めた。  細い身体が震えたが、言葉は出なかった。 「忘れてしまったわ」  タエはかすれた声で言った。 「不思議ね。貴族の城にいた頃は、毎朝、祈りを欠かさなかったのに。どうして、今はわからないのかしら」  光るものが頬を伝わった。  それが顎へ届かぬうちに、錆を含んだ声が言った。   我ら 大ならずされど小ならず   遠く去り また生まる   ゆえに呼べ 遥かなるものなりと  タエは視線をずらし、かすんだ眼で吸血鬼ハンターを見た。  誰も動かなかった。風と月光だけが周囲を巡り、砂山の表面をささやかにかき乱していた。  さらさらと砂が落ちる。  その流れが急速に太くなり、滑らかな表面に、方円の形が浮かび上がってきた。   地をさまよいつつ我 汝を求めしも   答えなく   憂し世に影のみを見ん  立ち尽くす影たちの背後で、別の影が動いた。  水底を歩む幽鬼にも似て、ゆらゆらと近づいてくる。  知ってか知らずか、Dは動かず、クレイも婆さんも鎮魂の席を離れようとはしない。  近づいてくるものたちの肩から、風が砂をとばした。  Dの声はあくまでも静かだった。   されど 我 恐るるを知らじ   沈黙の言葉を知り   見えざるものを見るが故に   我ら汝なり 汝は我らなり   遥かなるもの いま ここに送らん  月光が刃と化して躍った。  Dに挑んだ砂人は、ことごとく両断されて砕け、残ったものも、弦月に弾ける調べの前に崩壊した。  静寂が落ちた。 「三十秒もかからなかったか」  婆さんがタエの背を馬車の方へ押しながら言った。  Dがふり向いた。  クレイも、また。  砂の中から新たな人影が生まれつつあった。 「馬鹿な」  クレイの声に、はじめて本当の恐怖が満ちた。戦闘士の自信は剥げ落ちていた。  新たな影が、斃したばかりの砂人が復活した姿だと気づいたのである。  影は水泡のごとく生まれ、一行を包囲しつつあった。 「砂漠も進化したか」  Dがつぶやいた。 「面白え。どいつもこいつもバラバラにしてくれるぞ」  クレイの五本指が弦を引いた。 「D——誰か来るよ!」  御者台で、婆さんが手の指を伸ばしていた。 「兄貴!」  クレイが叫び、何かに驚いたみたいに立ちすくむ。  砂人たちもそれに倣い、砂丘の向こうから近づいてくる騎影を目撃した。  どこにどうしていたのか。  馬上に揺れるビンゴの姿は、以前と寸分の狂いもない眠り男のものであった。  その異様さに砂漠が恐れたのか立ちすくんでいた砂人たちも、すぐ、数体が新しい敵めがけて歩き出した。 「いかん! 馬車に乗れ。消されるぞ!」  クレイが叫んだ。  その言葉の意味はわからず、叫びの凄まじさのみに押されて、婆さんとタエは車中に跳び込む。 「えい、くそ。もう間に合わねえ」  舌打ちして、クレイは兄の方へ両手をふった。 「やめろ、兄貴——おれだ!」  その声が聞こえたかどうか。  ビンゴの口から水泡のごとき光る玉が吐き出されたのは、次の刹那であった。  その形も色も、シャボン玉に酷似しながら、生み出す効果は誰の想像をも絶していた。  ぎごちなく歩み寄る砂人の鼻先で、水泡は砕けた。  束の間、砂人たちの姿に変化はなく、数瞬後、その全身がおぼろに霞んだと見る間に、忽然と消失したのである。  奇怪な感覚が、このとき、Dを捉えた。  何か、夢から醒める瞬間のような。  再び、彼らは静寂のただ中に立っていた。 「よう、兄貴……」  クレイの声はくぐもっていた。いま、眼覚めたばかりだという風に。  弟の呼びかけにもすぐには答えず、ビンゴは馬上で揺れていたが、ひょい、と顔を上げた。  すっきりした表情と声で、 「まだ一緒にいるのか?」  そして、じろりとDの方を見た眼差しは、再び、奇怪な眠り男の澱みを湛えていた。  一緒にいる——すなわち“殺していないのか”という問いだろう。  クレイが青ざめたところを見ると、責めだったのかもしれない。  虚ろな眼がDに向いた。 「弟が世話になったようだな」  Dは無言である。長剣は鞘の中にあった。敵は来ず、とわかっているのだろう。すべて、ビンゴが斃した、と。 「おれも、仲間にいれてもらおうか」  ビンゴは俯いたまま、馬の腹を軽く蹴った。酔っ払いのような動作である。  ひょろひょろと近づいてきた。馬の足取りまでおかしい。 「また、余計な客だね」  と、いつの間にか御者台に顔を出していた婆さんが、鼻を鳴らした。 「自分の分の水と食料は失くしてないだろうね。うちにゃ余分はないよ」 「兄貴にゃ、水も食事も要らねえのさ」  クレイがにやりと笑った。 「別のところで摂るんでな」 「なら、結構。——ところで、Dよ。これから、どうするね? あたしの見たところ、砂漠の奴、前より手強くなっているようだよ。このままじゃ、永久にここを抜けられない」 「止めを刺す」  Dは短く言った。 「どうやって?」 「似たようなことを企んだ奴がいる。そいつを斃すのと同じやり方だ」 「どんな?」 「じきに夜が明ける」  Dは東らしい方角の空を見ながら言った。 「それまでに南西へ戻る」 「南西?」  婆さんは首を傾げていたが、すぐに眼を丸くした。 「あの、砂埃——もとい、砂嵐の方へかい!? 冗談じゃないよ、あたしゃ——」  絶対に嫌だ、と言いかけたのを、 「正解だ」  茫洋たるビンゴの声が止めた。 「見て来たのか?」  Dが訊いた。 「ああ。早いところ、安らかにしてやるべきだな」  Dは馬にまたがった。 「行くぞ」 「もう、仕様がない男だね。言い出したらきかない。亭主を憶い出すよ。結局、とび出しっ放しで帰って来なかったけどさ」 「止めたのか?」  とDが訊いた。 「いいや」  と婆さんはゆっくりと首をふって、手綱をしごいた。  砂丘の墓を、幾つもの顔がかすめた。  Dと、クレイと、老婆と。  そして、幌の背後の窓から、もの哀しげに見つめる白い花のような顔が砂丘の彼方に消えてすぐ、何処からともなく吹いてきた風は砂塵を巻いて小さな十字架を覆い隠し、死者を砂漠の住人と化したのであった。    3  暁光は砂の壁を浮かび上がらせた。  高い。  数百メートルの宙天に届いているだろう。  砂粒が頬に当たりはじめた地上で、Dは馬の足を止めた。  砂嵐まで一キロはある。 「ここで待て」  と背後を向いて言った。 「あん中へ行く気かい?」  御者台で婆さんがうっとうしそうな眼をした。 「何があるか知らないが、無事に帰ってこれるんだろうね?」 「半日待って、戻らなければ——おまえの砂絵で嵐を消せ。できるか?」  婆さんは、一瞬、驚いたようにDを見、すぐに、腹立たしげに唇を歪めた。 「あんたごと、まっさらにしてやるよ」  途端に血相を変えて、 「だけどさあ、戻って来てくんなきゃやだよ。あんた無しじゃ、ここを抜けられるかどうかもわからないんだ。危ないと思ったら、自分にはか弱い婆さんと女の子を守る使命があるんだと思って、引き返しておいで。ね、頼むよ」 「お守は彼らがやる」  Dは戦闘士兄弟をふり返った。  一頭の馬に大の男が二人もまたがっているのは、面白さを通り越して不気味な光景だが、御者台へクレイを乗せるのを、婆さんが拒んだのだから仕方がない。理由はタエの身近に置きたくないからだ。 「でも、この砂嵐の中に何があるんだい?」 「わからん」 「わからんのに行くのかい? もう、ダンピールの考えることなんて、生身の人間にゃ、到底理解できないね」 「おれたちが砂嵐を突っ切ろうとしたとき、タエがあの森へ導いた」  Dは砂嵐の方を向いて言った。 「ああ、そうだったね」 「この中へ行かせたくなかったのだろう」 「何故だい?」 「それを確かめに行ってくる」  別れの挨拶もなく、Dは風の中へと馬を進めた。  五、六メートル行ったあとで、背後からビンゴが追いすがり、右脇に並んだ。クレイは置いてきたらしい。  Dの利き腕を考えれば、たやすく切られても文句の言えない位置だ。不用心なのか、それとも、そんな運命を歯牙にもかけない自信があるのか。  ゆうべ、この男が見せた奇怪な消滅の技は、一体何事なのか?  同行するぜ、とも言わず、Dを見ようともしない。  一メートルと離れぬところにいながら、お互いのことなど眼にも入らぬような二人であった。  やがて、周囲を砂塵の黄幕が閉ざした。  太陽も姿を消し、肉眼では一メートル前方も透視不可能だ。  その中を、二組の騎馬は黙々と進む。 「弟から聞いた」  ビンゴが眠たげな声で言った。 「二度、生命を助けられたそうだな。礼を言う」 「………」 「おれたちを狙ったのは——砂漠だな」 「そうだ」  珍しくDが応じた。 「何故わかる?」 「夢で見た」  ビンゴの声は、風のどよめきの中でもはっきりと聞こえた。 「おれの夢の中で砂漠の見る夢をな。夢には本心が出るものさ」 「おれの夢はどうだ?」 「あんたのだけは遠慮させてもらおう。この年齢で気が狂いたくはない」  それはどういう意味なのか。 「何も仕掛けてこんな」  とビンゴは、Dの無反応を気にした風もなく言った。 「せっかく、進歩しかけたのに。——気でも変わったのか。それとも、その先に、何が待っているか、わかりでもしたか」  ビンゴの声は風の唸りにかき消された。  それきり黙って、ごうごうたる風に服の裾をちぎらせながら、二騎は黄塵のただ中を前進した。  いつしか。  前方に砂の色よりも濃い何かの影が浮かび上がってきた。  それを不安に思う様子もなく、二人は黙々と進む。  横なぐりの風が、自ら舞い上げた黄幕を拭い去ったかのように、荒涼たる瓦礫の広がりが周囲を取り囲んだ。  どれほどの規模の構造物が栄華を誇っていたのか。どよめく砂煙の中にも、広大な道路や精緻な彫刻を施した円柱、巨大なメカニズムの一部と思しい正体不明の機械の残骸が転がり、それがどこまでも広がって、砂塵の奥に消えているのであった。  両端も見えぬ舗装路を辿り、崩れかけた橋を渡った。  いつの間にか、ビンゴの馬はDより一歩遅れて歩いていた。  目的の地を知るものは誰か、悟ったのであろう。  蜘蛛の巣のごとき亀裂の入った回廊を巡り、突如、壮大な一角に出た。  谷間とも見えた。  容赦なく砂塵の跳梁する大地は大きく口を広げ、果ても見えぬ暗黒のさ中から、巨大な水晶を連結したとも見える硬質の物体が天高くそびえていた。  個々の物体の規模は上昇するほど増し、その怪異な不均衡は、この物体を構築したものの意図と結果とを、不気味という名の形容詞で塗りつぶしていた。  地の底で、淡い光が洩れた。  これは生きているのだった。  大地の端から、Dは黙然と水晶の山を見つめていた。  眼に映じた光景が、どのような思考を結ばせているのか、典雅な表情から窺うことはできなかった。 「それか?」  三メートルほど背後でビンゴの声がした。 「夢で見たと言ったな?——これか?」 「ああ」  返事には睡魔と疲労が粘っていた。 「人間と貴族を一緒にしようなんて、おかしなことを考えるものだな。この研究所が朽ちても機械は作動し、その成果を砂漠に流し込んだらしい。もっとえらくなろうと考えたとしても、文句は言えまい」  ビンゴの指摘に応じるがごとく、地底のかがやきはその強さを増した。  かつて、遠い遠い過去に、この広大な土地で、砂嵐のガードに包まれながら、ある禁断の実験が行われたのだった。  その成果がいかなるものであったか、誰も知らぬうちに時のみが無情に経ち、放棄されたメカは、全く意図せぬ孕み子を生み落とした。  砂漠が意志を持ち、さらなる進化を求めた理由を、Dはどう見なすのか。秀麗な美貌は、吹きすぎる砂に暗く翳り、地の底より噴き出す光に妖しくかがやいた。 「どうする?」  ビンゴが訊いた。  無言で、Dは馬を降りた。左手に丸めた毛布を抱えている。  天空で風がどよもした。  懐中から小刀を取り出し、彼は身を屈めて土を掘りはじめた。  それから後の行為は、背後から見守る形のビンゴには理解不能だったであろう。  いや、起きているとも眠っているともつかない状態で、白昼の夢を貪る戦闘士には、|最初《はな》から見るつもりもなかったかもしれない。  掘り起こした土が両腕に抱えられるほどの量に達すると、Dは毛布を広げた。  ねじくれた太枝が四、五本現れた。あの蠢く森で用意したものだろう。その二本を手に取り、軽くこすり合わせると、炎が生じた。  それを土の上へ投じ、残りを加えると、Dは左手を炎にかざした。  右手が手首を横切る。  滝のような勢いで鮮血が迸り、炎と黒土に降りかかって、黒い、異様な煙を噴いた。 「足りるか?」  とDは訊いた。 「何とかな」  嗄れ声は、Dの左手首のあたりから聞こえた。  その手が高く上がった。——と見る間に、風の怒号が黒衣の若者の周囲で巻き起こった。  砂塵が舞い狂い、煙も炎も細く長くちぎれんばかりに伸びた。いや、ちぎれた。それは形容しがたい色の一条の流れと化して、かざしたDの左てのひらに吸い込まれたのである。  炎ばかりか、彼の血を吸った土までも。  地水風火——すべて揃った。  怪異な吸引が終わるまで三秒とかからなかった。  その結果がDに何をもたらしたか、彼は妖々と大地の亀裂の端に歩み寄る。  馬がいななき、後退った。  奈落へ急落としの縁まで達し、Dは左手で小刀を抜いた。  その頭の中へ、何かが話しかけた。  ——やるのか?  左手が後頭部へ引かれた。  ビンゴの口から光る球が半ばほどまでのぞいた。  ——長かった。こうなる日を待った。おまえたちを襲ったのも、眠らせてくれると思ったからだ。  Dは動きを止めた。その頭部へ、七彩の球がのんびりと近づいた。 「なぜ、自ら眠りにつかん?」  ——できなかった。そうしたくとも。昇る[#「昇る」に傍点]ということは、あまりに魅力的だった。教えてくれ、わしだけがそうなのか。  Dは上体を反らせた。  球は跡形もなく弾けた。  ——教えてくれ。誰もが別のものになりたいのではないか。それが、途方もない疲れと苦しさを伴うと知っても。  小刀は閃光と化して走った。  ——教えてくれ。  光は水晶の林の何処かに吸い込まれて消えた。  待ちもせず、Dは馬の背にまたがった。 「あれで終わりか?」  ビンゴが朦朧と尋ねた。  答えず、Dは歩き出す。  三歩ほど進んだとき、背後——その彼方でため息のような音が聞こえてきた。  七歩。——水晶の何処かが淡い光を放った。  十歩。——光は光点となって、澄んだ音をたてつつ、水晶の中を落下していった。  それきり音はしなかった。  破滅とは、そういうものかもしれなかった。  きらめく大伽藍に数千数万の亀裂が入る。そのおびただしい破片。そして、崩れていく。  歩み去る二つの影は、身じろぎもしなかった。  もちろん、ふり向くことも。  突然熄んだ砂嵐に、婆さんとクレイが茫然と四方を見回してから二時間後、Dとビンゴは帰還した。 「終わったね」  と婆さんが訊いた。 「普通の砂漠になっちまえば、大したことはない。あと二日で抜けられるよ。何とか期日通り、町に着けそうだ。ほんじゃ、行こうかね」  婆さんは手綱を引いた。  四頭のサイボーグ馬は地面を蹴りはじめた。 「生命冥加な野郎だ」  と、兄の背中によじ昇りながら、クレイが毒づいた。 「もっとも、兄貴が一緒なら、無事に決まってるがよ」  言ってから、論理の逆転に気づいたのか、ひとりで珍妙な表情になった。  その脇をDがすぎた。 「何故、途中でやめた?」  遠ざかる問いに、ビンゴは答えず終いだった。  三日後の早朝、一行はバーナバスの町へと入った。 「さあ、お別れだ。いや、ここまで来れたのも、みんな、あんた方のおかげさ。百万遍でも礼を言うよ。——ほら、おまえも出ておいで」  御者台で無茶苦茶に笑顔をふり撒きながら、婆さんはタエを呼んだ。  無言でDは進む。  その後を馬に乗ったビンゴと、さすがに地面へ降りたクレイがつづく。 「なんだい、あんた方、もう行っちまうのかよ。あたしゃ、これから、この娘を家に届けるんだけどさ。ねえ、その前に、一杯やってかないかい!?」  ふり向いたのは、クレイだけだった。  婆さんの隣に、白い花のようにたたずむ影を見たとき、凶暴そのものの顔に、不思議な和やかさが浮かんだ。  それに気づいたか、タエが小さく頭を下げた。  口に手をあて、クレイは蛮声を放った。 「おい、姐ちゃん、また会おうぜ。愉しい旅だったよ。それから、婆さん、助けに行けと言った借りは必ず返すからよ」 「当てにしないで待ってるよ!」  婆さんの声と姿が遠ざかる。そのかたわらの娘の姿も。  眩しいものを見つめるような眼差しが、黒いロング・コートの背をいつまでも映していることに、気づいたものはいなかった。  Dはまっすぐ目抜き通りを抜け、五丁ほど離れた三階建てのビルの前で馬を降りた。兄弟の姿はない。  バーナバスの町は人口二千五百。ビルといっても、ほとんどが木造だ。  Dが戸口に消えると、通りのあちこちで陶然と立ち尽くしていた女たちの口から、はじめて切なげなため息が洩れた。  戸口へ入ってすぐの右手の階段脇に、テナント名を刻んだ真鍮の板が飾られていた。   二〇二 ソーントン法律事務所  そのドアを黒い手が叩いた。すぐに開いた。  秘書らしい若い女が、|口紅《ルージュ》を塗った口をあんぐりと開けて凍りつく。 「気にせんで入ってくれ」  奥のドアから、聞き覚えのある声が言った。  静かに女を退け、Dは待合室を抜けてドアを開けた。  八畳ほどの部屋である。  窓際のデスクの向こうに、ソーントンの仏頂面が浮かんでいた。 「ようこそ。時間通りだ。さすがは吸血鬼ハンター“D”」  差し出した手を、彼は宙で引っ込めた。  ハンターの多くは、握手を避けるものだ。不意をつかれぬ用心である。 「話をきこう」  Dは静かに言った。  指定された期間内——すなわち今朝までに、砂漠を抜けてこの場所へ辿り着くことが、ソーントンの条件だったのだ。  その見返りは—— 「どうやって私が先回りしたか、訊かんのかね?」 「|飛行具《フライヤー》を操るものはそうはいないはずだが」  弁護士はうなずいた。 「わしがそのひとりだよ。——旅はどうだったかね?」 「奴とは何処で会った?」 「彼自身からきくといい」  Dの顔に、はじめて感情の色が浮かんだ。 「——何処にいる?」 「この町の南のはずれにある廃屋だ。昔は貴族の屋敷でな。草ぼうぼうだが、見てくれより過去の栄光が宿を決める際の条件らしい。今なら眠っておるだろう」  Dは身を翻した。 「待ってくれ。私は彼の伝言を伝えただけだ。貴族といえどもお客でな。彼は何故、君に砂漠を渡らせた?」  ソーントンの声は、Dの背中に当たって砕けた。  彼を見送って、女秘書はもう一度、口を開けねばならなかった。  三十分後、荒廃しきった大邸宅の中に、吸血鬼ハンターは現れた。  青銅の扉も崩れた出入口の向こうに、海のような広いホールが鎮座していた。 「気いつけい」  左手が言った。 「奴はおる。気配があるぞい」  それにかぶさるように、  ——よく来た。  荘重な声が言った。  発現点は明瞭であった。  ホールの奥から薄闇の彼方へとカーブする大階段の中央に、幽鬼のごとき影が佇んでいた。  ——あの砂漠を渡るのは、おまえにとってひとつの試練だった。戦うことがではない。おまえが見たものは、ひとつの末路なのだ。  Dの左手が閃き、三すじの白光が黒影を縫った。  白木の針を背後の闇に呑ませて、影は声もなく笑った。  ——何を見た。何を考えた。おまえ自身の未来に? なおも酷烈な日々を送る気が残っているか? 安住を求めぬか?  Dは音もなく走った。  腐った床板は、小石の衝撃にも耐え得ず、しかし、Dの疾走は足跡ひとつ残さなかった。  二十の階段を、Dは二度のステップで踏破した。  跳躍——そして、一閃。  頭上から真一文字にふり下ろされる一刀を、影は避けようともせずに受け、手応えも残さず通過させた。  ——それが答えか。よかろう。それでこそ、我が唯一の成功例。だが、おまえが宿命を捨てぬかぎり、死は常に影法師となるぞ。  再びDの刀身は下方から跳ね上がり、鋼鉄の手すりを両断した。 「無駄だ」  声が言った。 「それは過去のイメージの残留部分だ。やめろ」  悠々と、影は階段の上へと後退した。  追おうとして、Dを異様な感覚が貫いた。  夢から醒めるときのような。  一気に階下へと身を躍らせた。  世界が朧にかすんだ。  いま、Dは夢の中にいた。  見るものが眼覚めれば消える。  夢を自在に操るものとは。  左手が前方に伸びた。  黒い線が戸口めがけて走る。四角い空間も歪んでいた。  青空の中心でそれが弾けた刹那、戸口は現実を取り戻した。  草に侵された庭園へ跳び出して、Dはふり向いた。  背後の家は忽然と消滅し、七彩の光の玉が数個、彼の方へ漂ってきた。  夢だった。夢そのものだ。それに触れたものも、夢と化して消える。  黒い糸が光の玉を空中で捕捉した。  玉の表面に広がる染みを、次の瞬間、Dの刃が貫き、夢の具体は砕け散った。 「見事だ」  眠たげな声は、生い茂る草の一角から聞こえた。  ゆらりと立ち上がった影の足もとは、おぼつかなげに揺れている。 「弟はどうした?」  Dが訊いた。 「酒場にいる」 「誰に頼まれた?」 「わかっているのではないか?」  ビンゴは寝呆け声で言った。  その身体を、空気を灼いて飛来した針が貫き、もぐり込んだまま消滅した。 「夢見るおれも夢だ」  ビンゴは眠りながら笑った。  現実のDに夢は切れない。今のビンゴは不死身に等しかった。 「おまえの夢は切った」  Dは静かに言った。  その胸もとから赤黒い箔片が塵のように落ちた。左手が放った黒い糸は、血の糸であった。 「日を改めるか」  とビンゴは悠然と言った。眠っているのだから、当然と言えば言える。 「時間はおまえが決めろ」 「まかせよう」 「では——明日の早朝。夜明けは午前四時。三時半に、ここで」 「なぜ、日中にせん?」 「なぜ、いま、おれを斬らん?」  Dは鍔鳴りの音をたてて、長剣を収めた。  ビンゴがゆらゆらと町の方を指さして言った。 「『エル・キャピタン』という酒場に一日中いる。よかったら来い」  夜になった。  風向きが変わり、砂漠へ吹き込んでいた風は、町へ砂粒を運んできた。  板塀や窓に当たって、それは寂しげな音をたてた。  旅立ち、辿り着く。  送るのも迎えるのも、哀しげな音であった。ホテルでの宿泊を断られ、あの邸宅の廃園に眠るDのもとへ、バイパー婆さんが訪れたのは、その深更のことである。 「タエは来なかったかい?」  金切り声でDの名を呼び、応じた声を頼りにやって来ると、婆さんは開口一番、こう尋ねた。 「そこにいなければいない」  婆さんはへたり込んだ。 「なんてこったい。着いたその日に逃げ出すなんて、大馬鹿が」  婆さんはその場に座り込んだ。靴は埃で白く汚れている。明かりは月光だけだ。 「どうした?」  Dの問いに応じて話したところによると、兄夫婦のもとへ訪れた娘を、兄嫁が、|最初《はな》から追い出す意図をこめて、凄まじい罵り方をしたらしい。  貴族の慰みもの。  どうして途中で死ななかったの。  捜索を依頼したのはお義父さんとお義母さんよ、あたしたちじゃない。  あんたがそばにいると、あたしたちの家に火がつけられるわよ。  兄は何も言わず、出て行くタエを見送っていたという。 「哀しむことはあるまい。こうなると想像はついていたはずだ。それに、送り届ければ、おまえの用は済む」 「そりゃそうだけどね」  婆さんは肩をすくめた。 「たまにはあたしも、商品の行く末が気になるのさ。酒場に行って、あの兄弟にまで訊いちまったよ。兄貴はともかく、弟は大慌てで、いまも探しまくってるだろう」 「来たら連絡しよう。ホテルだな」  馬鹿な娘だよ、と婆さんはもう一度つぶやいた。  たった一日も我慢できないなんて。ダンピールの赤ん坊を抱え、ひとりで生きていくことに比べりゃ、悪態なんていくらつかれても、耳に快い音楽なのに。  もう一回探してみるよ、と言い残して婆さんは立ち去った。  ダンピールの赤ん坊かい。ダンピールのね。……つぶやきは木立の間を遠ざかっていった。  少しして、  D。  誰かが呼んだ。  木立の間から現れた白い影は、Dの前でタエに変わった。 「婆さんから聴いた」 「あたし……我慢するつもりだったの。何を言われても。でも……お腹の赤ちゃんまで吸血鬼だと言われて……」 「ダンピールだ」 「みんなには同じなのよ」  タエの頬には涙の痕が残っていたが、光る粒は見えなかった。涸れ果てていたのである。  八年間、貴族のもとに拉致され、ようやく帰り着いた家は一日もいられず……。 「どうする気だ?」 「今夜だけ、ここにいさせて」  はじめて、タエは強い口調で言った。ひたむきな眼がDの双眸と合った。 「明日になったら、ひとりで何とかします。それまででいいんです。一緒にいさせて下さい」 「好きにしろ」  タエはDの隣に腰を下ろした。  その腹の上に毛布がかけられた。 「これは——あなたの」 「君へじゃない」  タエは毛布とDを見つめた。毛布の端を握った手の甲に、ぽつりと涙が落ちた。哀しくて流す涙は涸れていた。 「はい」  とタエは言って、毛布を引き上げた。 「ひとりで何とかすると言ったな?」  Dは前方を見つめたまま訊いた。 「はい」 「すぐ二人になる」 「………」 「ダンピールの子は思いやりがあるそうだ。——例外もいるが」  この冷気を結晶させたような若者の口もとに、苦笑じみた翳がかすめるのを、タエは信じ難い思いで見つめた。  おずおずと白い手が動き、Dの胸に触れた。  Dは動かない。 「私……少しだけ勇気を出します」  つぶやいて、タエは手の脇へ頬を乗せた。少しして、 「よかった」  と言った。 「胸の音が聞こえる。子供の頃、父さんから聞かされていたの。ダンピールは|呼吸《いき》をしない。だから、心臓も打たないんだって。本気で信じていました。貴族の心臓は黄金、血管は水晶、ダンピールも同じ。今では嘘だってわかっているけど、あなたを見たら、本当のような気がしてきたんです」 「………」 「でも、よかった。ダンピールの心臓も私たちと同じに鳴るのね。血も熱いのね。よかった。私の子も、あなたと同じなのね」  タエは泣いていた。泣きつづけていた。声は喜びに満ちていた。何故なのかわからないまま、タエは何とかやっていけるだろうと思った。  いつの間にか、静かな寝息をたてはじめた娘を、Dは不思議な眼つきで見下ろした。  額にほつれ毛がかかっている。  左手が伸びて、撫でつけた。  それから、彼は顔を上げ、前方の闇を凝視した。  三つの影が忽然と現れた。  婆さんとビューロー兄弟。 「今夜はおれが面倒をみる」  Dの言葉に、婆さんは唇を歪め、クレイは低く罵った。 「ふざけるな。夜の夜なかに、てめえみてえな色気違いと娘を一緒にしとけるか。鉄仮面みてえな顔をして早速コネつけやがって、この」  婆さんが上目遣いにDを見上げた。 「少し考えてみたんだけどね——起きないかい?」  Dの左手がタエの後頭部にあてられ、すぐに離れた。 「これで大丈夫だ」 「そうかい」  婆さんはうなずいた。いつもと違ううなずき方だった。 「二人とも不幸になるよりは、ひとりがまともな生活を送った方がいいと思うのさ。どうすればいいか、わかるだろ」  婆さんの右手は腰の壷にかかっていた。 「あたしの砂絵は人間の内側だけでも描けるのさ。やるよ、あたしは」  老婆の声は震えていた。それがかえって決意の強固さを如実に示していた。  タエの身体がそっと土の上にずれ、黒衣のハンターはゆっくりと立ち上がった。 「手を離せ」  恫喝の口調など一片もない声に、婆さんのみか、辺境一の戦闘士まで凍りついた。  Dの眼はかがやいていた。  赤く赤く——血の色に。 「ごらんよ……ごらん」  婆さんの唇がわななきと言葉をせり出した。 「見てごらんよ、今のあんたの顔を。タエの子もそうなんだ。どんなにいい男に生まれようが、人間以上の力を持っていようが、最後にはその顔が出るんだよ。そのたびに——いいかい、そのたびにそれまで築いてきたすべてのものがお終いになるんだ。一回じゃないよ、そのたびにだ。あんた、今まで何度、その顔をした? その貴族の顔を!?」 「手を離せ」  とDは繰り返した。 「いいや、よさないよ。あんたはダンピールだけど男だ。女の気持ちなんか、わかりゃしないさ」  Dの眼から血の色が急速に引いていった。  婆さんを見据え、彼はもの静かな表情で言った。 「おまえ、ダンピールだな」  時間が止まったかと思われた。  隠しようのない困惑が婆さんを捉えた。 「なにを……なにを」 「砂漠で、クレイはおれとおまえを連れに来た。ランスとタエは眠らせたまま連れていったのに、だ」 「偶然だよ、そんなこと」 「まだある。おれが立てた墓標を、最初ひと目見たとき以外、おまえは眼を向けようとしなかった。苦手な形だったか? ——もうひとつ、さっき、この娘を探しに来たとき、靴は埃で真っ白だったのに、|呼吸《いき》ひとつ切らせていなかったのは何故だ?」  Dは凝視した。怒号の時間より数乗倍恐ろしい沈黙の問い。  婆さんは弱々しく首をふった。 「嘘をおつき、いいがかりを……」 「いいがかりでない証拠がひとつあるぞ」  Dは止めの一撃を放った。 「な……」 「おまえのダンピールに対する憎悪だ。あれは、ダンピールゆえ」 「やめとくれ!」  婆さんは絶叫した。  叫びざま、右手を高く上げた。  指の間から砂が吹きこぼれた。  銃声が鳴った。  右手が思いきり突き上げられ、空中で虚しく砂を散らせた。  崩れかかる老婆へ走り寄るDを見ながら、 「クレイ!」  寝呆けてはいるが、さすがに鋭いビンゴの指示に、 「承知」  巨体は銃声の方角へと消えた。  二発目は撃ってこなかった。  Dは婆さんの傷を調べた。  心臓を貫かれている。火薬銃であろう。  白木の杭でないとはいえ、まだ息をしていられるのはダンピールならではだ。 「D——」 「口をきくな」 「指図をおしでないよ」  婆さんは浅く息を吸った。 「どいつが、何のためにやったか知らないが、あたしゃもう、助からないさ。いいんだよ、ほうっとき。あの娘を起こすなんて真似はやめとくれ。クールにいきたいからね。ねえ、ちょっと、手を握っておくれよ」  こう言ってすぐ、婆さんは自分からDの手を握りしめた。 「さっさとしとくれ、もう。ああ、思った通り、冷たい手だね。いいんだよ。これがダンピールの手さ。仕方がないんだよ。——何十年ぶりかねえ」  闇の中でもわかる蒼白な顔を、Dは見下ろした。 「子供が……いたんだよ。はは。母親がダンピールだから、倅もそうなるよね。……飛び出してっちまってさ。人の十倍は骨折って育てたつもりだったのに……ダンピールなら、ダンピールらしく生きてやるってね。……でも、仕方ないんだ。婚礼の前の晩……好きで一緒になるはずだった娘さんの喉に、牙たてちまったんだからねえ。血の涙を流してたっけ」  婆さんはタエの方に眼をやった。 「——いい顔して寝てるねえ。……今晩だけかもしれないよ。あたしは、いつも他人に言われてた。あんたみたいな……苦しそうな、怒りっぽい寝顔は見たことがないって。そうもならあな。……あの子には、そんな想いさせたくない。いま、あたしがやったことは、間違いないと思うけど……そうか、そうだったよね。あんたみたいに生きてるダンピールもいるんだ。こりゃ、やっぱり、ミスしちまったかねえ……」  不意に婆さんの顔は白く濁った。 「あ……さよなら……やっと楽になれそうだよ」  婆さんの首はがくんと横を向いた。  Dが覗き込む。 「あ、そうだ」  婆さんは眼を開けた。 「あんたから、最後のひと言もらうのを忘れてたよ。……愛してるなんて要求しないからさ。何か言っとくれ」 「あの娘の子供は逃げはしまい」 「そうかい!」  婆さんは破顔した。 「よかったあ……あんたが保証してくれるんなら、こりゃもう大丈夫さ」  ほっほっほと婆さんは笑い、また、首を横に倒した。  それきり、動かなかった。  こめかみに手をあて、Dは皺だらけの手を胸の上で組み合わせた。 「おっ死んだかい?」  ビンゴの隣にクレイが立っていた。 「明日の決着はどうする?」  ビンゴが訊いた。 「昼に延期だ。葬式を出さねばなるまい」 「日延べして、同じ時間にすればいい」 「おまえたちの雇い主がそれを望むかな」  Dはビンゴを見つめた。ビンゴはクレイを見た。  クレイは眼をそらせた。 「昼すぎに会いに行くと伝えろ」  ぞっとするような口調で言い、Dはタエの方を向いた。  明日、生きはじめねばならない娘は、いま安らかな寝息をたてていた。  翌日の昼下がり。  町はずれの葬儀屋から、一台の黒馬車が出発した。  棺を乗せたまま町の目抜き通りを巡り、その死を悼む人々がそれにつづく。親類縁者、友人、知己——ここでは数がそのまま死者への手向けとなるのだった。  今日の死者は安らかに死ねそうになかった。  馬車を操るのはまだ若い娘であり、その後につづくたったひとりの会葬者は、黒ずくめの美しい若者であった。  ことの外、強い陽射しの午後で、通りには人影も少なく、人々は侘しい会葬の一団を、いぶかしげな眼で見送った。  普通なら、無縁の町民が送る者の列に加わる。よるべなき死者に対するそれが辺境の礼だからだ。  ひとりもいない。  ゆうべのうちに、御者と死者、そして会葬者の素姓が、風のように町を吹き渡っていた。  その風を巻き起こした女は、夫ともども早朝にこの町を去った。  白い光の中に、車輪のきしみだけを響かせて黒い馬車と男女が行く。  娘は黒いベールを下ろし、若者は鍔広の|旅人帽《トラベラーズ・ハット》を胸にあてていた。  あるかなきかの風が、二人の髪を吹き乱していく。  やがて一行がその前を通過する三階建てのビルの一室で、三人の男たちが窓の外を眺めていた。 「最高の時刻だ」  小気味よい音を立てて懐中時計の蓋を閉めると、ソーントン弁護士は、背後の男たちに眼をやった。 「婆さんの死亡手続き、鑑識と葬式馬車の手配——太陽が真上にある時刻こそ、死者の旅にはふさわしい。そう思わんかな?」  答えはない。  ビンゴ・ビューローとクレイ・ビューロー——辺境一の戦闘士は、むしろ、不快そうな顔で雇い主の背を眺めていた。 「ダンピールにとって真昼の戦いは、その戦闘力の四〇パーセントを奪われると統計にもある。——そう不愉快そうな顔をするな。わしだって、こんな手を使いたくはない。いや、あれが虫ケラのような人探し女でなければ、断じて行使しなかっただろう。それもこれも、もとはと言えば、おまえたちが砂漠で奴を始末できなかったせいだ」  痛いところを突かれ、クレイは肩をすくめた。ビンゴの方は俯いたきり——無論、感じ入っているのでも、自責の念に駆られているのでもない。 「砂漠を抜けても、あのハンターを斃すまで、依頼はキャンセルされん。わしへの報酬も支払われん。今日、必ず殺せ」  そう言って、ソーントンは眼を閉じた。  報酬に何を求めたのか。その顔は淫らで傲慢な、ある種族に独特な表情が油のように広がっていた。  愛おしむように、彼はぽってりした手で首筋を撫でた。  クレイが身を乗り出した。  馬車のきしみが二階の窓の下にさしかかったのである。 「ほう。効果満点——さすがに苦しそうだぞ。わしの性格判断の直感も衰えてはおらんな。それにしてもあのハンター、わざわざこんな時間に付き合った上、帽子までとるとは。いや、冷酷非情と、人の噂など当てにならんものだな」  二人の男は黙然と、通りすぎる馬車を見つめていた。 「今なら殺れる。行け」  ソーントンの声に反抗を許さぬ力がこもった。  二人は背を向けてドアの方へ歩き出した。  ビルの戸口を抜けて、街路へ出る。  馬車とDは約十メートル前方を進んで行く。  二人は足早に歩き出した。  Dから二メートルほどの位置でスピードを落とす。  Dもタエもふり向こうとはしない。  二人は帽子をとった。胸にそっとあて、Dの後に続く。  会葬者は三名になった。  一時間後、馬車は出発地点——葬儀屋の裏にある共同墓地に停まった。墓掘りと誦読者がすでに掘り下げられた穴のそばで待っていた。  一同が穴を囲み、棺が地の底に下ろされると、誦読者が祈りを唱えはじめた。  短い祈りだった。  タエは口の中でその言葉を反芻した。  儀式は終わった。  墓掘りがシャベルで土をかけはじめた。 「さあてと」  クレイが、いよいよだな、という風に促した。 「この先に空地がある。そこで決着をつけようや」 「わからんものだな」  とビンゴが眠たげな声で言った。 「はじめて会った晩に片をつけるつもりでいたが……いまは正直やりたくはないんだ」  真っ先にDが歩き出した。  タエの声がきこえたような気がした。  立ち並ぶ墓標の列を越え、ほぼ円形の草むらで三人は対峙した。  距離は三メートル。 「礼を言う」  Dが言った。 「なんの」  クレイがにっと笑った。  彼方へ大きく跳びつつ、右手が竪琴にかかる。  Dは一気に走った。  ビンゴの方へ。  敵はそれを予期していた証拠に、眠り男の口は水泡の夢を吐く。  吐いたのはDの左手も同様であった。  |黒血《こくち》の糸は鞭のしなやかさで水泡群を襲い、その間を抜けた。水泡が巧みに体をかわしたのである。 「うめえぞ、兄貴!」  クレイが吠えた。  ビンゴとDがやり合っている限り、死の超音波は飛ばせないが、兄の戦いぶりから、いけると踏んだのだ。  迫り来る水泡を避けつつ、Dの左手は、ビンゴめがけて血の糸を飛ばした。  新たな夢が陽光にきらめきつつ、迎え討つ。  糸はことごとく水泡の表面に弾け、遮られた。  水泡が途絶えたとき、ビンゴの表情にはじめて動揺が浮かんだ。  その顔に否応なしに生気がみなぎってくる。  夢のすべてを吐いたとき、夢見るものは眼覚めたのだ!  一瞬、高々と跳躍した魔鳥のごとき黒影を、世にも美しいメロディが塵と変え、絶叫がまき起こった。  愕然と、クレイはよろめき、兄の背から突き出た白刃を見つめた。  たったいま、彼の竪琴の破壊したものが、地を駆って兄を串刺しにしたDのコートだと悟ったのである。  戦闘士の本能が反射的に第二撃を送り込もうと弦に指をかけ、硬直した。  Dは兄の向こう側にいた。  一瞬——  たちすくむクレイの額を、唸りとともに飛来した木の針が貫き、その全身をめり込ませた。  刀身を引き抜く分、倒れるのはビンゴの方が遅かった。  白い陽射しの下に二つの屍体が転がって——戦いは終わった。  風が渡っていく。  Dは少しの間、二人の敵を見つめた。  ふっと身を沈めた。  熱いものが頭上をかすめ、遅れて銃声が鳴った。  墓地の方角である。  身を屈めて走り出そうとしたDの耳もとをかすかな旋律がすぎた。  墓地の方で、苦鳴と驚きの声が上がった。  ふり向くDの眼の下で、クレイが微笑していた。伸ばした右手の先で竪琴が震えている。 「……これで……借りは返せたか?……」  声に合わせて、額から血の糸が噴いた。 「十分だ」 「そうかい……ついでにひとつ。……おれたちの雇い主は……ソーントンだぜ。今の奴は別の殺し屋……だ」 「わかった」 「……なら……|決着《けり》を……」  竪琴が持ち上がり、すぐに落ちた。 「ついてねえや」  クレイは眼を閉じた。  Dはふり向いた。  タエが立っていた。クレイの竪琴が鳴らなかったのは、このためであった。  娘の顔は戦慄に蒼ざめていた。 「怖いか?」  とDは訊いた。 「ええ」 「ハンターにはさせんことだ」 「まかせます、この子に」  震える娘の声に、力がこもっていた。 「でも——ハンターにならなくても、私の見た吸血鬼ハンターのような|大人《ひと》になれるよう育てます」 「もう、乗り合い馬車の出る時刻だ」  Dは太陽にちらりと眼を向けて言った。 「お金から馬車の切符まで……私、何も恩返しが」 「いつか、元気な噂が聴けるな」  タエの眼がかがやいた。 「はい、きっと」  タエはうなずいた。  手にしたバッグから、白い布の塊を取り出して、広げた。  ちいさな生命を包むための、ちいさな肌着。 「あの裁縫機でこしらえたものです」  タエは何かを憶い出すように言った。 「これで何とかやっていけると思います。お婆さんのおかげですわね。血なんかつながっていないのに、私、そんな人にばかり助けてもらえました」 「おれはまだ町に用がある」  Dは娘の顔を見つめたまま言った。 「達者でな」 「あなたも、お元気で」  きびすを返す黒い後ろ姿を、タエは白い光の中で見送った。小さな生命の動きと、何かあたたかいものが腹腔を埋めていた。  いま、別れる寸前に、彼女はDの口もとに微笑が浮かぶのを見たのだった。  それから長い長いあいだ、喜びと悲しみが交錯する日々の中で、娘はそれを浮かべさせたものが自分であることを憶い出し、ささやかな誇りを込めて、たったひとりの子供に話してきかせるのだった。それはそんな微笑だった。 [#改ページ] あとがきに代えて  果てしなき夜の詩。Dの物語を綴るとき、最も苦労するのが敵役である。  なにしろ、Dを無敵の超人に仕立ててしまったのだから、相手の設定には苦労する。  毎回、剣の使い手でも困るから、様々な妖術や特技の持ち主とするが、長篇一冊ひとりではもたない。机の前で汗をかきかき、うーんうーんと唸る羽目になる。  麗銀星の頃などまだよかった。 「北海魔行」など歯を食いしばって、精神集中に励んだ——といいたいが、あれは比較的簡単に考え出せたような気がする。いや、苦しんだかもしれないが、もう忘れてしまった。何とか十年間やってこれたのも、この能天気さのせいだろうか。  敵役創作に関して、私には致命的な一点があった。  敵役への感情移入が強すぎるのである。つまり、敵役=悪役ではないということだ。憎々しげな、いかにも悪役らしい悪役というのは、一作で尽きてしまう。  敵役にも人間らしさが必要なのである。  その典型が本作のビューロー兄弟であろう。ラストの葬式馬車に従っての行進といい、Dとの対決ぶりといい、私は殺すのが惜しくなった。  だが、どんな強敵でも、不死身のDが相手では、最後には敗れてしまう。これはインチキではないかと思う方もいるだろう。その辺は我慢していただきたい。Dの物語はまだまだつづくのである。  私の希望としては、いつか、人間性の|破片《かけら》もない残忍無比な敵役を出してみたいという想いがある。さしものDも手を焼くほどに強く、他者に対する感情移入など皆無の大悪役こそ、新しいDのドラマの引き立て役としてもってこいであろう。あのマグナス・リイ伯爵にしてすら、美少女に対する想いはあったのだ。  まだ当分筆を執ることはないだろうが、彼とDとの戦いの大勢は、おぼろげに私の頭の中にある。Dシリーズ史上最強の敵との戦いを、読者よ、楽しみにお待ちあれ。 「聖魔遍歴」には、さしたる苦労の記憶はない。それだけ、楽しんで書けた物語なのだろう。ヒロインのタエが、Dの心臓の鼓動を感じるシーンは、私の最も好きなもののひとつである。  平成四年十二月二十九日 「ドラキュラ復活/血のエクソシズム」を観ながら    菊地秀行